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第千三十七話 慟哭(一)

《愚かで哀れな獣の姫よ》

 聲を聞いたのは、何度目だろう。

 暗い世界で、彼女は考える。

 暗い世界。

 なにもかも、闇に没していく世界。

 光なんてものはなくて、漠たる闇ばかりがすべてを覆っていく。目に見えるものも、耳に聞こえるものも、闇の力には抗えず、沈んでいく。遠ざかっていく。光。光など、見たこともない。そんな風に吐き捨ててしまいたいほどに、闇が強い。

《うぬが望んだ未来は、潰えてしまった》

 聲は、告げてくる。

 こちらの感情などどうでもいいとでもいうように。

 彼女の想いなど、踏みにじってしかるべきだとでもいうように。

 平然と、言い放ってくる。

《うぬが求めたものは、ただの日常。ごくありふれた日々。いつか見た、いつも見ていた毎日にこそ、うぬの安寧はあった。うぬの平穏はあった》

 聲は、いう。

 まるでシーラのすべてを知っているかのように。シーラのすべてを見てきたかのように。なにもかも理解しているかのように。

 虚ろな闇の中で、シーラは、自分の手を見下ろした。手には一振りの斧槍が握られている。血塗られた斧槍。数多の獣の装飾が施されたそれは、ハートオブビーストと呼ばれた。命名したのは召喚者であるセレネだ。セレネ=シドール。彼も死んだ。シーラのために死んでしまった。

 胸は、もはや傷まない。

 心がないからだ。

 あるのは空洞だけだ。

 虚ろな空洞だけが、心に空いている。

《だが、うぬが夢見た世界はとこしえに失われてしまった。うぬが望んだ未来はもはや手に入らぬ』

 顔を上げる。

 母と、父が、倒れている。死んでしまった。シーラがここにいるために、死んでしまった。シーラさえいなければ、シーラさえ死んでいれば、ふたりは死ななかった。ふたりを殺したのは、シーラだ。自分の存在が、真実を知りたいという欲求が、ふたりを殺してしまった。

 真実になど拘らず、死ぬべきだったのだ。

 国のために。

 家のために。

 父と母と弟のために。

 自分のために。

《すべてはうぬがなしてきた物事の結果に過ぎぬ。うぬが別の道を歩んでおれば、こうはならなったであろうな》

 視界が揺れた。いや、世界が揺れたのだ。激突する力がこの狭い世界を震わせている。狭い世界。王宮という名の小さな楽園。もはや二度と元には戻らない。

 なにもかも失われてしまった。

《だが、うぬにほかの道はなかった》

 聲は、響く、シーラの頭の中で、反響する。幾重にも響き、無限に重なって、彼女の思考を狂わせる。いや、とっくに狂っている。狂っているから、このような幻聴を聞いているのだ。

《愚かで哀れな獣の姫よ。うぬにはこの道を進むしかなかったのだ。それがたとえ破滅に至る道であったとしても。それがたとえ終端に通ずる道であったとしても》

 そのとおりだ。

 道は、ほかにいくらでもあったはずだ。

 この状況を回避する手段なら、ほかに、いくらでもあったのだ。

 シーラ派が集い始めた時にタウラルを捨てれば、内乱など起きなかった。

 ガンディアに逃れたあと、隠れ続けていれば、アバードに潜入しようなどということにはならなかった。

 センティア脱出後、国外に逃れていればよかった。

 シーゼルでの合流後、ガンディア軍の御旗になどならなければよかった。

 セリスに殺されていればよかった。

 だが、どれひとつ、彼女には選べない道だった。

《そなたは愚直故》

 聲は、どこか、優しい。

 その優しさに甘えようとは思わないが。

《故にこそ、いとおしい》

 なぜ、そうまで優しいのだろう。

 ハートオブビースト。

 セレネ=シドールが召喚した斧槍。獣の力を秘めた召喚武装。その力は、いまだ使いこなせてはいない。それでも戦ってこられたのは、単純に、ハートオブビーストが強力な召喚武装だったからだろう。そんなものを自分に献上したセレネには、感謝するしかない。感謝してもしきれないほどの想いがある。痛みがある。セレネを死に追いやったのは自分だ。

 セレネだけではない。

 今回の騒動に関する数多の死の原因が、シーラだった。シーラがいなければ死ななかったものは多く、シーラさえ死んでいれば、それらの命は救われたはずだ。

《愚かで哀れな獣の姫よ。妾が唯一、主と認めた人の子よ。男子ならざる娘子よ》

 ハートオブビーストの聲を聞くのは、これが初めてではない。

 何度目か。

 正確に思い出せないのは、召喚武装の意思との接触は、夢現の間で行われることだからだ。つまり、いま、シーラの意識は夢と現の間を漂っているということだ。

 目の前の現実を受け入れられなかったということだろうか。

 そんなことはないと頭を振るが、脳裏に響く声がそれを許さない。

《うぬの最期の望み、叶えようぞ》

(最期の望み……)

《死にたいのであろう? 命を終わらせたいのであろう》

(でも、死ねないよ)

《何故?》

(セツナがいるから)

 セツナがいて、ラグナがいる。ひとりと一匹の主従は、なぜか、シーラを命がけで守ろうとしてくれている。シーラを死から守りぬこうとしてくれている。どういう理由なのだろう。どうして、そこまでしてくれるのだろう。自分など、死んで当然だというのに。

 死ぬべきだ、と思う。

 愛する祖国に混乱をもたらした挙句、母を苦しめ、父を苦しめてしまった。父母の苦しみを思えば、自分の苦しみなど、なんということもないほどのものだ。なぜ、その苦しみに気づくことができなかったのか。なぜ、両親の愛をなんの疑いもなく受け入れることができたのか。いや、疑う必要はない。ただ、もっと察することができたのではないのか。

 シーラは、ただ己に失望し、世界に絶望した。

《わかっておる。うぬが愛するおのこ故な……よく、わかっておる》

 否定は、しなかった。

 否定したところで、心の奥底まで見透かされているのだ。ただ、笑われるだけのことだ。恥ずかしがるなと煽られるだけのことだ。ハートオブビーストはすべてを知っている。シーラのすべて。理解しているから、そんなことをいってくるのだ。

 わかった風に、ではなく、わかっているのだ。

 だが、不快感はない。なにもかも覗き見られているという感覚もないからであり、ハートオブビーストの聲が優しいからかもしれない。

《わらわは、うぬの半身。うぬとともにあり、うぬとともにすべてを見てきた。あのものの心は心地よい。うぬが好くのも無理からぬこと。うぬが心を許し、すべてを捧げようとしたのじゃからのう》

 結局、彼にはなにもしてあげられなかった。

 彼の恩義に報いたいという気持ちは、いまもある。なんとしてでも、彼の力になってやりたかった。彼のためならばなんだってできるだけの覚悟はあった。彼は、それほどまでのことをしてくれたのだ。自分のために、なにもかもしてくれた。自分の立場が悪くなる可能性だってあったにも関わらず、シーラを救い、最後まで力を貸してくれた。守り続けてくれた。

 彼がいなければ、シーラはとっくに死んでいたことだろう。

 そのほうがよかったかもしれない――ふと、想ったが、やめた。彼の助力を無駄にしたくはなかった。

《なればこそ、わらわに任せるがよい。悪いようにはせぬ。うぬの望みを叶えることこそ、わらわの望み故な》

(わかったよ。あんたを、信じる)

《よい、心がけぞ――》

 聲が、途切れた。

 現実に戻ったとき、状況はなにひとつ変わっていなかった。当然だ。失われたものは失われたままだ。死者が息を吹き返すことなど、そうあるものではない。そして、ふたりが生き返ったからといって、シーラの中のなにかが変わるはずもない。

 空虚。

 シーラは、ぼんやりと立ち上がった。父と母の亡骸に胸中で別れを告げると、矢が飛来した。玉座から放たれた矢は、シーラの眉間に突き刺さる直前、見えない壁にぶつかって、落下した。右肩を見る。ラグナがこちらを見ていた。宝石のような目が、どこか不安そうな表情をしていた。ドラゴン。万物の霊長たる彼は、もしかしたら、シーラが夢現でハートオブビーストと対話していたことを察知したのかもしれない。

 だとしても、もう遅い。

 シーラは、叔父を見やった。玉座に腰を下ろした男は、驚愕に見開かれた目でこちらを見ていた。リセルグに止めを刺した弓銃を持つ手が震えている。それでは、シーラを射殺すことなどできない。もっとよく狙わなければならないが、狙ったとして、どうにかなるものでもない。こちらには鉄壁の防御がある。

 なにか、いったと思う。

 しかし、彼女は、自分でもなにをいったのかわからなかった。 

 ただ、心の命じるままにハートオブビーストを掲げた、

 ハートオブビーストの能力を解放するには、血が必要だ。血を流させて、はじめて、ハートオブビーストはその絶大な力を発揮する。

 だが、そのときは、不要だった。

 なぜか。

 血は、とっくに流れていた。

 父と母の血がシーラの足を濡らしていた。

 たったふたりの血。

 だが、血を分けた両親の血は、ハートオブビーストの真価を発揮するのに十分過ぎた。

 力の爆発が起きた。

 純白の奔流がなにもかもを吹き飛ばすのがわかった。

 なにもかも。

 ラグナも、セツナも、イセルドも、兵士たちも、玉座も、玉座の間も、王宮そのものも吹き飛ばし、徹底的な破壊を刻む。

(破壊)

 なにもかも破壊してしまえばいい。

 極端に矮小化した世界を見下ろしながら、彼女は、慟哭した。


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