第千三十五話 愚者の祭典(四)
安泰に思われたすべてが狂ったのは、唐突だった。
唐突に、歯車が狂った。
なにもかも順調だったはずだ。
王家は安泰で、アバード王国は平穏だった。近隣国との小競り合いも、ほとんどアバードが勝った。外征など考えず、国土の維持だけを考えていることが功を奏した、ということだ。外征に国力を割くよりも、国土の維持、国情の安定化に国力を投じるほうが懸命であろう。リセルグ・レイ=アバードの考えは、消極的ではあったものの堅実であり、アバード国民からそれなりの支持を受けていた。
なにより、シーラ・レーウェ=アバードが国中から支持を集めていたことが、リセルグの人気にも繋がっていた。
シーラは、セイル王子の誕生直後、シリウスからシーラへと改名し、王子から王女という立場に変わった。シリウス・レウス=アバードではなく、シーラ・レーウェ=アバードと名乗るようになった王女は、元より高かった国民的人気を不動のものとしていった。
それは、シーラが率先して国のため、民のために戦う王女だったからだ。
王宮に務める武装召喚師セレネ=シドールから召喚武装ハートオブビーストを献上された彼女は、だれよりも真っ先に戦場に飛び出し、戦った。外敵とも戦えば、皇魔の駆逐も率先して行った。だれよりも血を流し、だれよりも血を流させた。なぜ、彼女がそこまでして戦うのか、リセルグにはわからなかった。いや、わかっていた。それこそが王家の務めである、と彼女が認識していたからだ。王子であるころからそうだった。王女になったからといって、即座にそのやり方をかえることなどはできない。王女らしくもなければ、女性らしくもない生き様だったが、その事自体をセリスが否定することはなかった。
要するにセリスは、シーラを男として振る舞わせることにいびつさを感じていたのであり、シーラがみずからの意思で戦うことにはむしろ賛成している節があった。そのうえで女性らしさを磨き上げていけばいい。セリスがシーラの侍女としてウェリス=クイードをつけたのも、そのためだった。シーラは文句を言いながらも、少しずつ、女性らしい振る舞いを身に着けていった。セリスは、ただそれだけのことを心の底から喜び、一日中にこにこしていたものだ。
セリスは、シーラを解き放つことができて心底嬉しかったに違いない。
苦しみを乗り越えた甲斐があった、とでも思っていたのかもしれない。
そんなセリスの喜ぶ様が、シーラにとっても嬉しかったのであろうことは、だれの目にも明らかだ。セリスをもっと喜ばせたいから、シーラは頑張る。シーラが成果を上げるたびにセリスは喜び、シーラを褒め称えた。シーラには、それが嬉しかったのだろう。
シーラの奮闘ぶりは、セリスのみならず、リセルグやセイル、それに周囲のひとびとの胸を打った。貴族、軍人の中にもシーラの活躍に触発されるものが現れはじめた。シーラの存在そのものが、アバードを活気づけたといっても過言ではなかった。
クルセルク戦争の最中、シーラの国民的人気が加熱するのも、無理はなかったのだ。
(そう。クルセルク戦争だ)
リセルグは、考える。
最愛の妻の亡骸を見つめながら。妙に軽くなった体を抱えながら、考える。
魔王の国クルセルクとの戦いが、破綻のきっかけとなった。
魔王率いる皇魔の軍勢との戦いは、アバード一国でなされたものではない。クルセルクは、アバードの隣国ではあったが、魔王軍の脅威はアバードのみに及ぶものではなかった。ガンディアやジベルといった近隣諸国は、クルセルクと魔王の存在を脅威とし、力を合わせ、魔王を討つことを決意した。反クルセルク連合軍の結成である。当然、アバードも連合軍に参加した。
クルセルク戦争が始まれば、様々な情報が飛び交い、アバード国民を一喜一憂させた。
中でもシーラの活躍が大きく取り上げられ、アバード国民は熱狂した。戦う王女シーラの活躍ほど、アバードの国民にとって喜ばしいことはない。シーラが活躍すれば活躍するほど、シーラの人気は加熱し、熱狂が渦を巻いた。
熱狂が、王都にまでおよび、王宮へと至る。
セリスも、シーラの活躍を喜んだ。セイルも、イセルドも、リセルグも、皆、シーラの活躍を自分のことのように喜び、彼女が無事に帰ってくることを祈った。どれだけ活躍しても、死なれては意味がない。シーラは大切な家族だ。
生きていてほしいと、無事に帰ってきてほしい願うのは、当然のことだ。
そう、それまでは、なんの問題もなかったのだ。
なにもかも順調だった。
順風満帆だった。
クルセルク戦争が終われば、シーラが王都に凱旋するだろう。リセルグたちは盛大に出迎え、シーラの活躍を褒め称えるのだ。
だれもが、そう想っていた。
(どこで、なにを間違ったのだ)
リセルグは、シーラの顔を見た。
我が娘ながら美しく育ったものだと、彼は茫然と想う。純白の鎧兜は、彼女の髪色に合わせたものなのだろうが、その美しい装飾もよく似合っている。美々しく着飾るそのさまは戦乙女というに相応しく、表情さえ引き締まっていれば、戦場に映えただろう。しかし、いまの彼女は、戦場が似合わない。いまにも泣き出しそうなそんな表情だった。
泣くな――とは、いえない。
泣くほどのことではない、ともいえなかった。
だれだって、これほどの話をされれば、衝撃を受け、涙を流すかもしれない。いや、目の前で母親に死なれたのだ。泣かないはずがない。彼女は今、懸命に涙を堪えている。泣けば、話を聞くことに集中できないからだ。涙がすべてを流しきってしまうからだ。
(強い子だ)
強く、弱い。
人間なのだ。
強いばかりではあるまい。どこかに弱いところがある。その弱さを隠しきるだけの強さがあるから、彼女は戦い抜いてこられたのだ。ここまで、辿り着くことができたのだ。
シーラの目的は、わかっている。
ガンディアの勝利に貢献するためでも、リセルグたちを殺すためでもあるまい。家族思いで聡明なシーラのことだ。なぜ自分が殺されなければならないのか、その理由が知りたかっただけだろう。知れば、セリスがそのことを告げれば、彼女はみずから死んだかもしれない。そして、セリスも死んだであろう。愛娘に死を強いた罪の意識に耐え切れなくなって、死んだのだ。いま、シーラが生きているのは、セリスが耐え切れなくなることのほうが早かったからに他ならない。
そして、それでよかったのだろう。
リセルグは、シーラを抱きしめ、慰めてあげたいと想った。だが、そんなことはできない。もはや、彼女に触れることはできない。この手は、汚れすぎた。身も心も汚れてしまった。穢れ無きシーラには、触れることなどかなわない。
「セリスが再び狂気に囚われたのは、クルセルクとの戦いが連合軍の勝利で終わり、そなたの活躍がアバード中を沸かせたからだ」
リセルグは、告げた。
理不尽な話だ。
理不尽で、救いようのない話だ。
「シーラ派が暗躍を始めた。そなたこそ王位継承者に相応しいというシーラ派の考えは、そなたの活躍に熱狂していたアバード国民に広く受け入れられた。そなたのあずかり知らぬところでな」
シーラ派を名乗るものが増えた。シーラ派は、女王擁立運動を巻き起こした。シーラの王位継承権を復活させ、シーラにこそ王位を継承させるべきだという運動であり、それはシーラの帰国前からアバード中を動かしつつあった。
その熱狂が王都まで席巻した。
「そなたは、なにも悪くない」
だれひとり悪くないのか、といえば、そうではあるまい。
だれもが、悪い。
欲に駆られたものたちがいて、それらが無垢な民を煽った。国民たちは純粋にシーラのことを敬愛していたから、シーラ派の過激な言動も、そうなのかと受け入れた。受け入れ、熱狂した。狂気が熱を帯びてアバード全土を覆った。
これに狂れたのが、セリスだ。
「セリスは、おそれたのだ。シーラ派の運動が加熱し、王宮までもがシーラ派の色に染め上げられることを。わたしがシーラ派の勢いに負け、そなたの王位継承権を復活させることを。わたしがそのようなことをするはずがないとわかっていても、狂気は、それを許さない」
「どうして……」
「セリスは、セイルが王にならねばならぬという強迫観念に支配されていた。それがすべての発端だったのだろう」
セイルは、セリスとイセルドの子だ。リセルグの子ではない。だが、だからこそ、セリスは、セイルの王位継承にこだわった。こだわらなくてはならなかった。でなければ、意味がない。自分が苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、やっとの思いでセイルを得、生んだ意味がなくなる。
「そなたが王位を継承するということは、セイルが王位を継承しないということだ。セリスには、それが認められなかった。セリスがセイルを生むためにどれだけの苦痛を乗り越えてきたのかを考えれば、わからなくはないことだ。だから、わたしにはセリスを止めることはできなかった。そなたの帰還を拒絶したのも、そなたが王都に凱旋し、そなたが人気を不動のものとすることを恐れたのだ。たとえ、わたしがそなたの王位継承を認めずとも、アバード中の国民がそなたを支持し、そなたこそアバードの王に相応しいといいだせば、どうなるか」
リセルグは、シーラの目を見た。青い目、アバードの血筋を感じさせる瞳は、揺れている。揺れながら、こちらから目をそらそうとはしない。現実のすべてを受け入れようという覚悟があるのか、どうか。
「わたしは、動くまい。だが、セイルが動く。あの子は、純粋で無垢だ。故に、王位継承にこだわりを持っておらぬ。姉であるそなたが王となってもなんの問題もないと想っている。セリスの想いなど、露ほどもわからぬ。しかし、それは仕方のないことだ。セイルは、セリスではない」
人間は所詮別個の生き物だ。家族といったところで、他人は他人なのだ。心の奥底まで理解することなどできない。
それは、リセルグにもいえたことだ。
リセルグは、セリスの痛みをわかっているつもりだが、それもすべてを完全に理解できているわけではない。理解できないからこそ、セリスを止められなかったともいえる。彼女がどれだけ苦しみ、どれだけの痛みの中で生きてきたのか、完全無欠に理解することができていれば、このようなことにはならなかったかもしれない。
「セリスもまた、セイルではないが、セリスにはセイルの考えがわかっていた。セイルがそなたを敬愛し、そなたこそ王に相応しい人間であると見ているということも、承知している。セリスがそなたの凱旋を認められなかったのは、そこにある。王都中の臣民がそなたの凱旋に称賛と歓喜の声を上げる光景を見れば、セイルはどう想うか。そなたこそ王に相応しいと思うだろう」
セイルは、まだ幼い。次期国王としての教育を受けてはいるものの、まだまだなにもかも子供じみている。そして、それでよいのだ。子供の頃から大人として振る舞う必要はない。成人を迎えてそれならば問題もあるだろうが、セイルはまだ、九歳にもなっていない。子供でいいのだ。
「セリスはそなたの受け入れを拒絶することで、そなたの存在そのものを黙殺しようとしたのだ。黙殺し、それで終わりにしようとした。そなたがそのままアバードのどこかで静かに暮らしてくれれば、セリスとしては万々歳だったのだろう」
だが、現実には、そうはならなかった。
「あとは、そなたも知っての通りだ」
リセルグは、そういって、大きく息をついた。長々としゃべりすぎた。疲れてきている。血を流しすぎたことも影響しているのか、どうか。
「知っての通り……」
「タウラルに隠れたそなたの元にシーラ派が集い、国を二分する状況になったことは、当然、覚えているな?」
「はい。わたくしの考えが至らぬばかりにあのようなことに……」
シーラは、心底、あのときの行動を悔やんでいる様子だった。王都への帰還を拒絶されたあと、タウラルに赴かなければ、アバードが二分されるような状況にはなりえなかった。シーラはそう考えているのだろう。それは、一部では当たっている。だが、一部では間違っている。シーラがたとえタウラルに赴かず、別の都市に逃れたところで、同じことだったのだ。どこからともなくシーラ派が集い、状況は悪化しただろう。しかも、タウラル領伯ラーンハイルが主導権を握る立場になければ、シーラがその状況をぬけ出すことなどできなかったのだ。状況に流され、王宮軍との決戦に、みずから出向かなければならなかったかもしれない。
そういう状況を避ける唯一の方法は、シーラが国外に消えることだった。だが、当時のシーラには、そんな考えが思い浮かぶはずもない。クルセルクとの戦いが終わり、帰国してきたところだったのだ。そこからさらに国外へ向かうなどとは、思いつくはずがなかった。
「いや、よい。そなたには他に取るべき道などなかったのであろう」
「しかし……」
「それに、あれでよかったのだ。あの状況なればこそ、そなたを生かすことができた」
脳裏に浮かぶのは、ラーンハイル・ラーズ=タウラルの最期の顔だ。彼は、死ぬ直前まで涼やかな顔をしていた。タウラル領伯として一時代を築いただけのことはあると思えたし、リセルグが彼を重用したのも当然といえるような最期だった。
ラーンハイルの処刑も仕方のない事だった。シーラ派の首魁である彼を生かすことはできない。
「そなたの元に集ったシーラ派を殲滅し、そのどさくさに紛れてそなたを国外に逃がそうと言い出したのは、ラーンハイルだ」
「ラーンハイルが……?」
シーラが愕然とした。彼女には想像もつかなかったことなのかもしれない。
「わたしはラーンハイルの提案に乗り、エンドウィッジにてシーラ派を殲滅した。レナを――そなたの遊び友達であったあの娘をシーラ・レーウェ=アバードとして処刑した。心苦しかったが、そうするよりほかなかった。そうしなければ、そなたを生かすことなどできなかったのだ」
シーラ派を殲滅し、シーラを処刑したという事実が、セリスの狂気を鎮めることを期待した。セリスさえ正気を取り戻せば、なにもかも上手くいくはずだった。リセルグがセリスを止められないから、アバードは混乱の一途を辿っている。セリスさえ止めることができれば、セリスさえ、正気を取り戻せば、そういった状況から抜け出すことは容易い。
しかし、セリスが狂気からぬけ出すことはなかった。
「だが、セリスがそなたの生存を知ったとき、なにもかも徒労に終わった。セリスは、そなたが生きていることが許せなくなっていた。そなたが生きている限り、セイルの王位継承が脅かされるものだという誇大妄想に囚われ、わたしの声さえ届かなくなってしまっていた。そなたを殺すことだけが彼女のすべてになっていた」
「そんな……」
「わたしはセリスを止められなかった。セリスを狂わせたのは、わたしだ。わたしに子種がなかったばかりに、セリスを苦しめてきた。わたしには、セリスの苦しみのすべてをわかってやることも、肩代わりしてやることもできぬ。だから、見届けることしかできなかったのだ」
言葉でどれだけいっても届かない。
抱きしめても、想いは伝わらない。
彼女の暴走を止めるには、彼女の命を絶つ以外にはない。
そんなことができるわけがない。
その結果が、この惨状なのだ。
「すまなかった」
「父上……」
「許してくれとはいわぬ。わかってくれ、などともいわぬ。ただ、これだけは伝えたかったのだ。わたしも、セリスも、そなたを愛している、と」
「……」
シーラは、なにもいわなかった。いうべき言葉が見当たらなかったのか、それとも、空疎な言葉に心が動かされることもなかったのか。あるいは、怒りや憎しみが渦巻いているのか、どうか。
シーラのことだ。
きっとそんなことはあるまい。