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第千三十四話 愚者の祭典(三)

「……そなたが生まれたのはいまからおよそ二十三年前のことだ。齢四十を過ぎ、ようやく子をなすことができたのだ。よく覚えている」

 リセルグは、セリスの死に顔を見つめながら、遠い目をした。そのまなざしは、二十年以上昔の光景を見ているのかもしれない。シーラが生まれたときのことを思い浮かべているのかもしれない。

「わたしも、セリスも、周りの者も、皆、喜んだ。跡継ぎが生まれるのだ。アバード王家は安泰だと、だれもが想った。だれもが、王子の誕生を信じ、祝福した。国中が祝福してくれたことは、忘れようがない」

「でも、わたくしが生まれてしまった……」

「……そなたの誕生は、表向き祝福でもって迎えられた。しかし、ひとびとの内心の落胆に気づけぬほど、わたしも妻も愚かではない。だれもが王子の誕生こそ望んでいたことも知っていた。だが、わたしは構わなかった。わたしとセリスのたったひとりの子だ。念願の……待ちに待った我が子。男児であれ、女児であれ、愛する我が子に変わりはない。そうであろう」

 リセルグの独白は、続く。

 シーラが打ちのめした天翼隊の兵士たちが起き上がり、玉座の間に入ってきたものの、セツナが制する間でもなく、彼らはなにもしてこなかった。ただ、兵を走らせている。ここに戦力を集中させるつもりなのかもしれない。

「しかし、ひとつだけ問題があった。わたしには子種がないということだ。そなたが生まれたのは奇跡に等しかったのだ。だから、喜びもひとしおだったし、国全体が王子の誕生を願ったのも当然といえる」

 ひとの口にとは立てられぬ、とリセルグはいった。リセルグに子種がないという話は、公然の秘密になっていた、ということだろう。だから、セリス王妃が懐妊したことで、国中が大騒ぎになり、王子の誕生を願ったのかもしれない。

 無垢な願い。

「わたしは、そなたを王子として育てることに決めた。つぎの子が望めない以上、王子が生まれることはない。ならば、王女を王子として育てるよりほかない。アバードに女王の前例がないわけではなかったが、女王を君主とするジュワインという悪例がある。我が国をジュワインのような国にするわけにはいかぬ。統治者は女王ではなく、王でなければならなかったのだ」


「わかっている。そなたを王子として育て、王として王位を継承させたところで、本質はなにも変わっていないのだということにも薄々と気づいてはいた。ただのおためごかしに過ぎないのだということも、わかっていた。わかってはいたが、わたしに子種がない以上、そうするよりほかなかったのだ。そうすることで、そなたが王位を継承することの正当性を主張したかった。浅慮よな」

「父上……」

「道は、ほかにもあったはずだ。ジュワインの悪例など黙殺し、そなたを王女として育て、女王とするのも悪くはなかったはずだ。いまのそなたを見れば、女王として君臨するにたる資質があり、資格があることは明白。そなたにアバードの将来をかけてもよかったのだろう。あるいは、わたしの子ではなく、イセルドの子に王位を継がせてもよかった。王位を継承したのはわたしだが、イセルドもアバード王家直系。その血筋は、紛れも無くアバード王家のものであった。道は、いくらでも合ったのだ。だが、わたしは――」


「わたしとセリスは、視界を失っていた。視界を失い、道を見失い、ひとつの道しか見えなくなっていた。そして、わたしとセリスの決定に反対するものなど、いるはずもない。そなたを王子として育てることを決めたとき、だれひとりとして反対するものが現れなかったのは、わたしが王であり、セリスが王妃であったからであろう。王と王妃の決定に反論すれば、どうなるものかわかったものではない。わたしがそれまで積み上げてきたもののつけが回ってきたのだ」

 気配がして、セツナは背後を一瞥した。シドが玉座の間に飛び込んでくる瞬間が見えた。シド・ザン=ルーファウス。ベノアガルドの十三騎士のひとり。シドがセツナたちを追いかけてくるのは想像していた通りだったが、彼が王宮に辿り着くのは想像よりも遥かに早い。馬を飛ばしたわけではあるまい。馬を走らせたからといって、この短時間であの場所から王宮内部まで辿り着けるとは思えない。おそらく、みずからの足で、ここまできたのだ。彼の足の速さ、移動速度の凄まじさについては戦場でいやというほど目の当たりにしている。黒馬の全力疾走さえ追いつき、追い抜いたのだ。彼が全速力で移動すれば、あの場所から王都まですぐに辿り着くものなのだとしても、不思議ではない。もちろん、通常人の脚力ではありえないことであり、彼が常人ではないという認識があるからこそ、不思議ではないと思えるのだが。 

 彼は、玉座の間に入り込んでくるなりセツナを見たが、剣を抜いて飛びかかってきたりはしなかった。即座に状況を理解したらしく、瞑目し、深々と礼をした。セリス王妃の死を悼んでいるらしい。わざとらしい、などとは思わなかった。ごく自然な挙措動作。騎士として身に沁みついた反応だったのかもしれない。

「……そなたは、物心付く前から王子として育てられたからであろう――なにひとつ疑問を抱くこともなく、男児として、男として成長した。シリウス・レウス=アバード。それが、当時のそなたの名前であったな。覚えておるか?」

「もちろんです。わたくしの、最初の名前ですから」

「……違う」

「え?」

「最初は、シーラと名付けた。男として育てることに決めたとき、シリウスと名を変えさせたのだ。そなたの記憶にはないことだろうがな」

「そう……だったのですか」

「そうだ。だから、シーラ。シーラという名こそ、そなたの本当の名前なのだ」

「本当の……」

「だから、胸を張っていればよい。そなたはシーラだ。わたしとセリスのたったひとりの娘だ」

「たったひとり……?」

「それについても、話さねばなるまい。いや、それこそがセリスの心を苦しめ、狂わせ、病ませた最大の原因なのだからな」

 そういって、リセルグは瞑目した。

 玉座の間に満ちた静寂は、むしろ歌うように、世界を包み込んでいる。その場にいるだれひとり、ふたりの会話の邪魔をしなかった。兵士たちは無論のこと、シドも、なにもしてこなかった。

 シド。

 彼が玉座の間に到達したのは、セリス王妃が自決してからのことだ。彼がシーラを殺そうとしないのは、シーラの殺害を依頼したのであろうセリス王妃が死んでしまったからなのかもしれない。あるいは、リセルグ王の目の前だからだろうか。リセルグ王は、シーラの実の父親だ。救いを標榜する騎士が、依頼とはいえ、親の目の前で娘を殺害することは、考えにくい。そんなものが救いになるとは、セツナには思えない。もちろん、ただシーラを殺すこともだ。

(死んだほうがましだと思うような地獄……か)

 以前、闘技場でシドがいってきた言葉を思い出す。

 シーラの境遇は、いままさにそうなのかもしれない。

 愛する母に殺されかけ、なおかつその母親は、なぜか自決した。心臓を突いたのだ。即死に近い。セリスを死から救うことは、なにものにもできなかった。だが、その死が救いであるかのようにリセルグは、いう。

「そなたが王子として成長するに従って、わたしは、間違いではなかったのだと想うようになった。周囲のものたちがそなたを王子として受け入れ、褒めそやしていた。英気溌剌としたそなたは、アバードの王子として、王位継承者としてなにひとつ問題がなかった。そなたは王子であり、いずれはこの国を背負う王となるのだと、だれもが理解し、だれもが認識した。だれひとりとして、不満を挙げなかった。そなたが王子として完璧に近かったからだ。そなた以上の王子、王位継承者を望むことなど不可能であるとだれもが思っていた。わたしは、みずからを欺き、己の過ちを正当化した」

 リセルグは己を断罪するようにいって、顔のシワを深いものにした。険しい表情。厳しい声音。懊悩と苦痛が表面化し、部外者のセツナさえ心苦しくなる。

「だが、セリスは、違った。セリスは、母親だ。そなたを心から愛し、だれよりもそなたを見ていた。政務に追われるわたしよりも、そなたといる時間が長く、故に、そなたが王子として振る舞い、男児として、男として成長するに連れ、膨れ上がるひずみを直視せざるを得なかったのだ」

「ひずみ……」

「そなたは女だ。女は、男にはなれぬ。男が女になれぬように、生まれ持ったものを変えることは、不可能に近い。そなたを男として育てたところで、女であるという真実を変えることはできぬのだ。それが、セリスには辛く、苦しかったのだろう。そなたを王子という役割から開放したがっていた。わたしも、セリスの説得によって、ようやく理解した。わたしは、己の愚かさ、浅はかさに恥じ入るばかりだった」

「そんな……わたしは……」

「そなたはよくやっていたのだ。本当に、よくやっていた。だれひとりそなたの振る舞いに不満を抱くものはいなかっただろう。理想的な王子であった。シリウス王子が王位を継げばアバードは安泰だと、だれもが囁いていたものだ。それくらいには、そなたはよくやっていた」

 リセルグのシーラに注ぐまなざしは、優しい。言葉通り、心の底から彼女を愛しているのだということが伝わってくるようだった。愛していても、ままならないことがあるのが政治というものなのかもしれないし、王という立場なのかもしれない。

「それが、セリスには耐え難かったのだ。そなたに生まれたままの女としての幸せを与えてやることもできないのは、親として苦痛以外のなにものでもなかった。だから、そなたを王子という偽りから開放し、真実の姿にしてあげたいと願っていた。子を、欲したのだ」

 リセルグが目を伏せた。その目が見つめるのは、セリスの亡骸だ。胸を一突きし、苦痛の中で死んだセリスの表情は、痛ましい。なにより、セリスの瞼を閉じるために触れたリセルグの手が、セリスの顔を血で赤く染めていた。リセルグの手は、セリスの短刀で貫かれ、止めどなく血が流れていた。いまも、血は止まらない。

 はっとする。

 リセルグの顔は、青ざめていた。

「男児さえ生まれてくれれば、そなたを王子という役割から開放できる。そなたとどれだけ年が離れていようとも、王子ならば、王位継承権を優先することもできる。そうすることでそなたを王女に戻すことができる。だから、子をなす必要があった。だが、わたしには子種がない」

 リセルグは、暗澹たる声で、告げた。何度もいっていたことだ。子種がないから、シーラの誕生は奇跡的なものであり、国中が喜び、王子であることを望んだ。女児であったシーラを王子として育成したのも、リセルグに子種がなかったからであり、第二子を望むことができなかったからだ。絶望的だったからだ。それでも子をなさねばならなかった。

 そうしなければ、シーラを解放することができない。

 セツナは、リセルグやセリス、そしてシーラの心情を想いやって、拳を握った。やりきれなさだけがある。他人のことだ。そして、他国の王家の話だ。口を挟むことはできないし、挟もうとも思わないが、聞いているだけで胸が締め付けられるような気分になった。息苦しく、物悲しい。

 シーラは、だいじょうぶだろうか。

 そればかりが気にかかる。

 時折、リセルグの言葉にわずかに反応を示すだけで、セツナの視界に映る彼女の姿は、なんだか小さくなっていっている気がした。きっと気のせいなのだが、だからといって無視できるものではない。鍛え上げられた強靭な肉体も、いまは、触れただけで壊れそうなほど弱々しいものに見えた。

「……結局、わたしとセリスの間に、子が成されることはなかった」

「え……?」

 シーラが顔を上げる。

 リセルグの発言は、驚くべきことだといわざるを得なかった。シーラには、弟がいる。セイル・レウス=アバード。シーラの帰国後、アバードが二分される騒ぎになった一因が、彼の存在だ。シーラから王位継承権を奪ったといってもいいセイル王子という存在が、シーラ派の運動を加熱させたといっても、過言ではないという。シーラ派とセイル(王宮)派の対立が、アバードに混乱を招いた。

 リセルグが、そんな疑問に答えるように告げてくる。

「セイルは、わたしとセリスの子ではないのだ」

「そんな……そんなこと……」

 シーラの声は、震えていた。信じ難い事実を突きつけられれば、そうもなるだろう。部外者であるセツナでさえ驚愕して、目を見開いていた。

「……嘘、ですよね?」

「この期に及んで、嘘をついてどうなるというのだ」

 リセルグは、シーラの願望をにべもなく否定した。否定し、さらに衝撃の事実を口にするのだ。

「セイルは、セリスとイセルドの子だ」

「母上と叔父様の……?」

 シーラが凍りつくのが、遠目にもわかった。リセルグとセリスの子ではない、というのはまだわかる。王家の血筋を引くだれかの子ならばなんの問題もないだろう。王家の血さえ引いていれば、王位継承権を発生させることは難しくないという。先もいっていたように、イセルドというリセルグの実弟から、子をひとり、養子として引き取るという手も、あったはずだ。王子でなければ、王でなければならないというのならば、そういう方法も考えられた。

 だが、リセルグの告げた答えは、そのどちらでもなかった。

 「イセルドには、子種があった。彼は、妻との間に既に三人の子を成していたのだから、そのことに間違いはあるまい。だから、イセルドにわたしの代わりを務めさせた。イセルドはわたしの弟だ。先も言ったように、アバード王家の正当なる血筋だ。イセルドとセリスの子ならば、我が子も同じ」

「なにを……」

「わかっている。狂っていたのだ。なにもかも、狂っていた。わたしも、セリスも、狂っていた。愛するそなたを王子という呪いから解放するために躍起になっていた。わたしとの間に子がなせないことが決定的になってからというもの、セリスの狂気は膨れ上がる一方だった。そなたは知らぬかもしれぬが、セリスは、日に日に壊れ始めていたのだ」

「母上が……」

「セリスを救うには、そなたを解放するよりほかはない。しかし、そなたを解放するには、子をなさねばならぬ。わたしに子種はない。わたしは、イセルドに頼み込んで、わたしの代わりを務めさせた。セリスも、イセルドも辛かっただろう。苦しかっただろう。だが、子は成された」

 リセルグは、セリス王妃の髪を撫でながら、告げる。

「それが、セイルなのだ。懐妊し、男児が生まれたとき、セリスはようやく狂気から解放された。男児が生まれたのだ。念願の王子。そなたを王子という呪いから解き放つことができる。ようやく。ようやくだ。わたしも安堵した。これで、なにもかもうまくいく。そう想った」

 リセルグの声音に込められた感情は複雑で、すべてを理解しきることは困難のように思えた。いや、そもそも、リセルグの気持ちは、理解しきれたものではない。リセルグ自身がいっていたように、狂気としか思えない発想だった。

 シーラを解放したという気持ちは、わかる。

 王子という歪な役割を押し付けたことを悔い、女性という本来の姿に戻してあげたいという感情も、理解できる。そのために子をなそうというのもだ。だが、だからといって、彼らのやったことは、まったくもって賛同できなかった。

 狂気。

「そなたが王子という偽りの姿から王女という本来の姿を取り戻したとき、セリスがどれほど感動したか、そなたにはわかるまい。セリスは、心の底から喜んでいた。そなたは男の言葉を使い、男の格好をしていることが多かったものの、そこは、大きな問題ではなかったのだ。問題は、そなたを偽りによって苦しめ、本当の幸せを与えてあげられないことなのだからな」

「わたしは、わたくしは、王子のままでも、十分に幸せでした……」

「そなたならば、そう答えるであろうことはわかっている。親思い、家族思いのそなたが、己の不自然な立場を不幸とは思うまい。そなたほど自己犠牲にあふれたものは、わたしは知らぬ」

「自己犠牲などではありませぬ……」

 シーラは強い口調でいったが、リセルグは、そんなシーラを穏やかに見つめるだけだった。

「そなたは、そういう。だが、わたしの目から見れば、そなたはみずからを犠牲にしてでも周囲の幸せを守ろうとしているようにしか思えぬのだ。それが王家の人間の務めだというのならばそれまでだが」

「父上も母上も、そうではございませんか」

「……そうやもしれぬ。それこそ、アバード王家の血筋か」

 リセルグが感慨深げにいった。

「自己犠牲。確かにそうだ。セリスもイセルドも、己を犠牲にして、そなたの幸せを願った。幸せを願い、子を成した。セイルはわたしの子ではないが、わたしは、そなたと同じように愛情を注いだ。王位継承者は、わたしとセリスの子でなければならなかったからだ。そなたも、セイルを愛してくれたな?」

「はい。わたしにとっては初めての姉弟ですから」

「わたしとセリス、そなたとセイル――家族が四人になり、王家は安泰だった。セリスはよく笑うようになった。そなたのことを話すときも、とてもうれしそうに話したものだ。そなたが日々、女性らしさを身につけるのが嬉しくてたまらなかったのだ」

「……母上」

 それなのにどうして、という疑問が生まれる。

 それなのにどうして、セリス王妃はシーラを殺したがったのか。そこまでシーラを愛しているのなら、クルセルクから帰ってきた彼女を出迎えればよかったのではないか。そうすれば、このような事態になることはなかったのではないか。

 少なくともガンディアがアバード領土に侵攻するようなことにはならなかったはずだ。

「セイルが生まれたから八年あまり。幸福な日々は、このまま続くかと思っていたのだがな」 

 リセルグの声には、深い悔恨が込められているようだった。


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