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第千三十三話 愚者の祭典(二)

「よく、無事に戻ってこられましたね。シーラ。愛しいシーラ。わたくしの、シーラ」

 セリス・レア=アバードの声は、セツナの耳にもこそばゆいほどに優しく、穏やかで、気品があった。とても、シーラの死を望んでいるような人物の声などではなかったし、騎士団がシーラを殺すために嘘をついたのではないかと思ってしまうほどだった。それほどまでに、セリスの表情も声音も優しく、慈しみに満ちている。シーラに向けられるまなざしも愛娘を見つめるそれであり、そこに偽りはないように思えた。

 だから、だろう。

「は、母上……」

 シーラは、セリスに駆け寄った。無造作に、無防備に。だが、それは仕方のないことだ。拒絶されると思っていた相手が全霊で受け入れようとしてくれているのだ。彼女がすべてを投げ打ってでも、その想いを信じようとしたのも、わからなくはない。

 だが、セツナは、シーラを抱きとめたセリスの目に殺意が浮かぶのを見逃さなかった。背後にやっていた手が動いた。銀光がきらめく。

「どうして、生きているのですか?」

「……!?」

「シーラ!」

 セツナは叫んだものの、彼の立ち位置からではどうすることもできなかった。どうすることもできず、見届けるしかなかったのだ。セリスがシーラの脇腹に突き刺した短刀が、見えない壁に弾かれ、火花を散らす瞬間を、見守るしかなかった。セリスが短刀を突き入れたのは、脇腹の、鎧の隙間だった。壁がなければ、致命傷だっただろう。

 セリスが、愕然とした顔をした。

「どうして……?」

「ははうえ?」

 シーラが呆然としたのも無理はない。

 期待は、一瞬にして裏切られた。セリスは、シーラを殺そうとしたのだ。殺すために、シーラの油断を誘った。油断を誘うための演技。しかし、セリスがシーラに発した言葉は、どれも本音のように思えてならなかった。どこにも嘘くささはなく、演技には感じられなかったからだ。だが、セリスがシーラへの殺意を抱いているというのも、本当だ。

 セリスは、短刀が弾かれたことが納得出来ないのか、二度、三度と同じ場所に突きつけ、やがて、力尽きたかのように、その場に崩れ落ちた。そして、シーラを仰ぐ。

「どうして、死なないんですか? どうして、死んでくれないのです? どうして、どうして!?」

「母上……」

(良かった……)

 セツナは、シーラの肩の上でラグナが安堵の息を吐いているのを見て、安心した。ラグナの魔力はなんとか足りたらしい。いざというときには、少し距離の離れたセツナではどうすることもできないのだ。だから、セツナは彼にシーラを任せた。シーラひとりを守るくらいならばなんとかしてくれるだろうと考えたのだ。そして、ラグナはセツナの想った通りに働いてくれた。ラグナがいなければ、シーラは重傷を負っていたに違いない。

「どうして!」

 セリスは、悲痛な叫び声とともに、再び短刀を振り上げた。が、短刀はシーラを守る魔法壁に弾かれるよりも先に、手のひらに突き刺さっていた。突き刺さり、突き破る。血が流れ、落ちた。大きくも老いた手のひらが、そのまま、セリスの手を掴む。

「父上?」

 シーラは、信じられないというように、セリスの背後から手を伸ばしてきた人物を見た。彼女のいうとおり、リセルグが、セリスの凶行を止めたのだ。表情に刻まれた苦痛は、手のひらを貫く刃によるものなのか、それとも別種の痛みによるものなのかは、わからない。おそらく両者であろう。妻が娘を殺そうとしているのだ。胸を痛めないはずがない。もちろん、リセルグが人並みの感情を持っているのならば、という前提だが。

 そして、リセルグがセリスを止めるのは、控えめに見ても、遅すぎた。ラグナがいなければシーラはいまごろ瀕死の重傷を負っているのだ。リセルグがラグナのことを知っているとも思えない。たとえ、騎士たちからの報告を受けていたとしても、この期に及んでラグナの行動まで読みきっているとは、思いがたい。

 要するに、セツナは、リセルグの考えがまったくわからなかった。シーラを殺したいのか、それとも、生かしたいのか。殺したいのならばセリスを止めるのはおかしく、生かしたいのであれば、もっと早くセリスを止めるべきであり、騎士団を止めるべきだった。

「陛下、どうして、止めるのですか! どうして?」

「もう、よいのではないか?」

 セリスの悲壮なに対して、リセルグは落ち着き払っている。冷静に、穏やかな態度で、セリスの目を見ていた。その場に屈み込み、セリスと目線の高さを合わせた。落ち着かせようとしているのかもしれない。

「なにがいいというのです? シーラが生きているのですよ? わたくしのシーラが、愛しいシーラが、生きているのですよ」

「そなたのシーラならば、そなたが愛するシーラならば、生きていてよいではないか」

「よくありません! 愛しい、愛するシーラだからこそ、生きていていてもらっては困るのです! それは、陛下だってご存知ではありませんか! シーラがいるから、この子がいるから、わたくしは……!」

 セリスの叫びは、部外者であるセツナには支離滅裂に思えてならなかったし、シーラの心情を思うと、なんともいえない気持ちになった。部外者である以上、話に入っていくこともできない。ただシーラに歩み寄り、最悪の事態に備えることだけが、セツナにできることといってよかった。

 リセルグが、セリスに向かって頭を下げた。

「すまぬ」

「陛下!? なにを、謝られるのです! 陛下は、なにも――」

「そなたの心を苦しめたのは、すべて、わたしだ。わたしの不甲斐なさが、愚かさが、そなたを苦しめ、思い悩ませてきたのだ。そのことは、よくわかっている」

「陛下は、最善をなされました。あのときは、ああするしかなかったのです。わたくしも、それ以外に道はないと覚悟を決めたのです。そのことを恨んでなど、後悔してなどおりませぬ。わたくしの苦痛など、陛下の苦悩にくらべれば……」

「いや……そなたの苦しみに比べれば、わたしの苦しみなど、たいしたものではあるまい。シーラを生み、セイルを生んだのは、そなたなのだからな」

「……だから、シーラには死んでもらうしかないのです」

 やはり、セリスの言葉は、考えは滅茶苦茶だった。でたらめで、支離滅裂としか感じられない。どこか空疎に感じるのは、そのせいかもしれない。しかし、セリスは、心の底からそういっているようなのだから、やりきれない。

「……この状況でシーラを手に掛けたところで、なにがどうなるというのだ。そなたにもわかろう。シーラがここに辿り着いたということは、頼みの綱の騎士団が敗れ、我が軍もまた、敗れ去ったということだ」

 リセルグはそういったが、セリスを落ち着かせるための方便をいっているのだろうということは、なんとなくわかる。あまりに落ち着き払っている。敗北を眼前に控えたものの態度ではない。

「ですが、シーラさえいなくなれば、この国は、セイルのものになります。セイルに王位を継承させることが、わたくしどもの悲願ではございませぬか!」

「なにを……いうのです」

 シーラが、やっとの思いで口を開いた。口を開き、思いの丈をぶつけるかのように叫んだ。

「わたくしは、王子殿下が生まれられてからというもの、一度だって王位の継承を望んだことはございません! 現に、わたくしの王位継承権は破棄したはずです!」

「だったらなぜ、消えてくれないのですか!」

「母上……!」

「あなたがいるから、あなたが生きているから、わたくしのセイルが王位を継ぐことができないのです! それでは、わたくしがセイルを生んだ意味がありません! わたくしがセイルを生んだのは、なんのためだというのですか……!」

「シーラのためであろう?」

「……!」

 セリスの目が驚愕に見開かれた。そして、見開かれた両目から、大粒の涙がこぼれた。頬を伝い、顎から流れ落ちる。

「そ、そうです……シーラのため。愛しいシーラのため。最愛のあなたのために、子供が欲しかった。あなたを――」

 セリスは、なにを想ったのか、リセルグの手から短刀を抜き、みずからの胸に突き刺した。リセルグの手が抗わなかったのは、力を込めることができない状態だったからだろう。手を貫かれていたのだ。力が入るはずもない。だから、彼女の行動を止めることができなかった。

 その場にいただれにも、だ。

「セリス!?」

「母上!?」

「ごめんなさい、あなた、シーラ。わたくしは、どうやら、大きな思い違いをしてしまっていたようですね。わたくしはただ、あなたがたを愛していただけだというのに、どうして、こんな……」

 セリスは、最後の力を振り絞って言葉を紡ぎ、そして、息絶えた。胸に刺さった短刀を握っていた手が離れ、重力に引かれるように地に落ちる。崩れ落ちるのは、手だけではない。セリスの体もまた、力を失って床に倒れかけたが、リセルグによって支えられた。

「母上! 母上……!」

「セリス……」

 リセルグは、セリスの体を抱えながら、手で彼女の瞼を下ろした。セリスの体はもはや動いてはいない。死。あっさりと、死んでしまった。いなくなってしまった。シーラは茫然と立ち尽くしていたし、セツナもただ見守ることしかできなかった。

「どうして、どうしてこんな……」

「ようやく。ようやく解放されたのだ」

「解放……? 死が、解放だというのですか……」

 シーラは、ただ呆然と、つぶやくようにいった。混乱の果て、みずから死を望んだ彼女には、実感としては理解できることなのだろうが、目の前で、最愛の母親に死なれれば、そうもなるだろう。

「そなたには、わからぬだろう。セリスの苦しみ、セリスの悩み、セリスの失意、セリスの慟哭……」

 リセルグは、セリス王妃の亡骸を愛おしむように抱きながら、いった。その声は重く、低い。だが、明瞭で、一字一句聞き逃すことはないだろうと確信できた。

「セリスは、そなたの母は思い悩んでいたのだ。ずっと、この二十年、ずっとな」

「二十年……?」

「そう、二十年。二十年だ」

 リセルグが、語り始めた。

 それは、セリスが自決した理由であり、セリスがシーラを殺そうとした理由であり、このアバードが混乱に飲まれた理由でもあった。

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