第千二十九話 迷妄
「戦況は、どうなのでしょうな」
イセルド=アバードが口を開いたのは、話題を提供するためというより、この重く苦しい沈黙に耐え切れなかったというほうが近いだろう。
リセルグ・レイ=アバードは、バンドール王宮の一室に集まった面々のことを考えながら、顔の皺を深くした。険しい表情になるのは、仕方がない。状況が状況だった。アバードはいま、存亡の危機に貧している。いや、滅亡までの期限が迫っているといったほうが正しいのかもしれない。
もちろん、勝算がないわけではなかったし、だからこそ戦いに踏み切ったのだが。
でなければ、ガンディアなどという大国と面と向かって争い合うなど馬鹿馬鹿しいことはない。勝算がなければ交渉し、講和に持ち込むのが正しい。講和に応じてくれるかどうかは不明ではあるものの、ガンディアとて戦争したくはなかったはずだ。彼らとて、仕方なく戦端を開いている。そのことは、ガンディア中に満ちている厭戦気分を押し切っての戦争だということを考えれば、わかることだ。
そして、ガンディアは当初、アバードに降伏を持ちかけてきている。ガンディアに降り、シーラの王位継承を認めれば、アバードという国は存続することができる、などといってきたのだ。シーラが女王となってアバードを統治するということは、ガンディアが実質的にアバードを支配することに違いない。ガンディア軍の御旗となってしまった以上、シーラにはガンディアに従う以外の道はないのだ。
だが、それも、悪くはなかったかもしれない。
少なくとも、アバードという国は存続する。
ガンディアという大国の庇護下で、存続し続ける。ガンディアのことだ。シャルルムに奪われたタウラルも、即座に取り戻してくれることだろう。ガンディアの属国になることは、必ずしも悪いことではない。ガンディアは今後ますます拡大し、発展を極めていくに違いないのだ。そんな国に付き従うことは、栄光の道をともに歩むということにほかならない。
しかし、アバードはガンディアの申し出を突っ撥ねた。
拒否せざるを得なかった。
リセルグには、そうする以外の道はなかったのだ。
故に、たったひとつの勝利の可能性にかけた。
それが、シーラの死だ。
「ガンディアとシャルルムの八千を相手に、我が方はたった四千。そのうちアバードの戦力は千程度というではありませんか」
「ベノアガルドの騎士団は精強なのでしょう?」
「ええ、ベノアガルドの騎士団は強い。まさに最強といっても過言ではないでしょう。が、相手はあのガンディアです。泣く子も黙る黒き矛のセツナが合流したと聞きます」
セツナという名を聞いて、セリスの肩がわずかに震えたのをリセルグは見逃さなかった。黒き矛のセツナことセツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドに思い入れがあるわけではない。セツナがシーラと行動をともにしていたということを聞いているからだ。
シド・ザン=ルーファウスの報告によれば、シーラは、セツナとともにセンティアに現れたという。エンドウィッジの戦い以降消息の掴めなかったシーラだが、そのことからセツナの元に匿われていたのではないか、ということが窺い知れる。セツナは龍府を領地としており、シーラがアバードから消息を絶ったちょうどそのころ、彼は龍府に滞在していた。龍府はアバードに近い都市であり、ガンディアの都市なのだ。ガンディアに親近感を抱いていたシーラが、ガンディアの領伯を頼るのもわからない話ではない。
そのまま隠れ住んでいてくれれば、良かったのだ。
そう、思わないではない。
「騎士団がいくら強くとも、万魔不当と恐れられるセツナ伯が相手では、どうなるものか」
「問題は、セツナ伯ではなかろう」
リセルグは、顔を上げて、イセルドを見やった。見事なまでの白髪は、まごうことなきアバード王家の血筋を示している。顔も、よく似ている。彫りが深く、肌が白い。碧眼には知性が宿っており、彼が王家の中でも特に秀でた政治家であることを思い知らせるかのようだった。しかし、政治家としての手腕だけでは人望は集まらないのだろう。彼には派閥というものはなかった。
その点、シーラは違う。シーラは政治力など皆無に等しかったが、そんなものが必要にならないほどの人望があり、熱狂を生むほどの人気があった。派閥が生まれ、国を二分するほどの反響が起きるほどの運動があった。女王擁立運動。そのことを思い出すたびに苦い顔になる。
イセルドは、リセルグがなにを示しているのか理解したのだろう。視線を逸らした。
「……まあ、そうですな」
「シーラ……」
セリスがつぶやいた一言に、室内が静まり返る。元々、イセルドが口を開くまでは沈黙で保たれていたのだ。
室内には、リセルグとセリス、イセルド以外にもうひとり、いた。そのもうひとりというのは、セイル・レウス=アバードである。王子である彼は、アバード唯一の王位継承権保持者であり、セリスの横で、母親の顔を心配そうに見上げていた。白髪に碧眼はアバード王家の血筋の証明であり、利発そうな顔つきは、セリスによく似ている。
「母上……」
「ああ、セイル。だいじょうぶですよ。なにも心配いりません。あなたは将来、アバードの王になり、この国を背負っていくのです。ですから、なにも心配する必要はないのですよ」
セリスが、愛おしそうにセイルの髪を撫でる。その際の一言一言がリセルグの胸に突き刺さるかのようだったが、無論、セリスがそのようなことを意図しているはずもない。セリスにはセリスの苦悩があり、リセルグはそのことを分かち合ってあげることもできない。意を汲むことでしか、彼女に愛を示すことができないのだ。
イセルドを見ると、彼の弟は、セリスとセイルの触れ合いを優しいまなざしで見ていた。この状況下にあっても家族への愛情を忘れないのが、実にイセルドらしかった。イセルドは愛妻家で知られていたし、たったひとりの妻との間に設けた三人の子供に対し、平等に愛情を注いでいる。政治よりも家族と過ごすほうが好きだというのが彼の口癖だが、その癖、政治家としての手腕があるのだから、本人としては困ったものかもしれない。
「申し上げます!」
不意に、扉の外から聞こえてきたのは、近衛兵の叫び声だった。
「たったいま、城門が破壊されました!」
「なんだと!?」
「城門が!?」
イセルドとセリスが愕然と声を上げる中、近衛兵の報告は続く。
「城門を破壊したのは、セツナ伯で、シーラ様を連れ立って王都への侵入を果たしたとのことです!」
近衛兵の悲痛な声は、まるでリセルグの心情を反映しているかのようであり、彼は、険しい顔をことさらに厳しくして、息を止めた。
「シーラ……」
最愛の娘の名を口にし、項垂れたセリスの表情は髪に隠れて見えなかった。
王宮は、王都の北側にある。
王都の南側に位置する門からならば、直進するだけで、最短距離で王宮に辿り着けるというのが、門を破壊したセツナがシーラから聞いた情報だった。
門を破壊するのに余計な力はいらなかった。これまでと同じように、カオスブリンガーを叩きつけるだけで破壊でき、門は粉々になって破片が飛び散った。城門に生まれた空隙、その真っ直中に飛び込めば、そこはもう王都バンドールだった。まず先にセツナが王都内に飛び込み、城門の周囲に待機していた兵士たちの注目を浴びた。やはり、防衛戦力は残されていたのだ。城門目前に転移したセツナたちに対してなにもしてこなかったのは、城壁上の監視の目が届かない位置に運良く転移できたからなのかもしれない。そんなことを考えている間に迎撃を受けたものの、相手にもならなかったし、ほとんど相手にしなかった。バンドールを守るのは、騎士団の兵士たちではない。アバードの正規兵である。シーラの手前、殺すのは忍びなかった。
殺すほうが早い。加減する必要が無いからだ。矛を振り抜くだけで、兵士たちの命は散る。だが、それをすれば、シーラの心を深く傷つけるのではないか、という恐れがある。彼女の心は既に傷だらけで、疲れ果てている。そんなことはわかっているが、だとしても、これ以上、彼女を追い詰めるようなことをする必要はない。そういう意味でも、あのとき、空間転移を行えてよかったのだ。空間転移ができたから、アバード軍との接触を避けることができた。馬に乗ったまま突撃しながら手加減するというのは、普通に戦って手加減するよりも遥かに困難だっただろう。
ただでさえ殺さないように倒すのは難しい。
何人かの兵を昏倒させた頃、シーラが王都内に入ってきた。セツナがシーラに目配せすると、彼女はこちらの考えを理解したように進路を変えた。直進するのではなく、迂回路を通って王宮を目指す。直進するほうが近いのはわかっているが、それは王都の防衛戦力にだってわかっているということだ。防備が固められ、突破するのも面倒なことになりかねない。
皆殺しにするというのなら、大した手間はかからないのだが。
殺さずに殲滅するなどという芸当は、さすがのセツナでも困難極まりなかった。
不可能ではないにせよ、時間がかかりすぎる。
時間をかけたくはなかった。
そんなことに時間をかければ、騎士たちに追いつかれる可能性が高い。少なくとも、シド・ザン=ルーファウスは既に王都に向かって移動中であろう。馬を追い抜くほどの速度を見せたシドのことだ。セツナたちが王宮に辿り着くころには、王都に到達しているかもしれない。
セツナは、シーラの案内するままに王都バンドールを駆け抜けた。厳戒態勢下、市内を出歩く住民の姿は見当たらない。見つかるのは王都防衛のために残された兵士たちであり、バンドールの各所で、セツナたちを待ち受けていた。情報の伝達が早い。元より警戒態勢だったこともあるだろうし、城門を破壊したことが大きく影響しているのかもしれない。破壊音が響き渡れば、否応なく兵士たちも対応するだろう。
障害物として進路を塞ぐ兵士たちに対しては、セツナが先行し、叩きのめした。シーラには戦えないだろう。それくらい、セツナにだってわかる。ここは彼女の生まれ育った都市で、兵士たちは、シーラにとってはかけがえのない国民だったのだ。そんな兵士たちを殺せないのは当然として、打ち倒すことだって簡単ではあるまい。
覚悟は、しただろう。
なにもかも受け入れて、見届けると彼女はいった。
シーラは、自分のしてきたことの結果がこの状況なのだと認識しているし、自覚がある。だから、見届けるといったのだ。現実から逃避せず、すべてを受け入れた上で、見届けるのだと。それが自分のしてきたことに対する報いなのだと。
だが、だからといって、祖国の人間と戦うことは、心情的に辛いものであるはずだ。
見届けるのと、率先して戦うのとは、違う。
だから、セツナが戦うのだ。
殺さず、進路を確保するためだけに打ち倒す。場合によっては昏倒させるまでもないし、苦戦することなど、ありえない。
王都バンドールの町並みを見ている暇もなかった。入り組んだ路地を駆け抜け、封鎖された橋を突破し、裏道を疾駆する。先導するシーラは、この大都市の構造を熟知しているようだった。やはり生まれ育った都市というだけのことはあるのだろうが、だとしても、不思議なことのように思えた。シーラは王都に生まれ育ったとは言うが、彼女が生活していたのは王宮であり、王都の構造について詳しくなれるとは、とても思えない。が、シーラの迷いのない走りを見ていると、そんな疑問も消えてなくなる。知っているのなら、知っているのだ。王宮暮らしの日々の中で、王都を歩きまわったこともあるのかもしれない。そんな風に結論づけて、彼女の後を追う。
どこからともなく撃ち込まれる矢も、どこからともなく飛びかかってくる兵士にも、セツナが対応した。矢も兵も黒き矛の一閃で沈黙させる。攻撃は、シーラを狙うことはなかった。セツナだけを狙っている。セツナだけを殺そうとしている。シーラを手に掛けることを拒んでいるのか、それとも、そういう命令が上から出されているのか。いずれにせよ、それはセツナにとっては喜ぶべきことだった。自分が狙われる分にはなんら問題ない。もちろん、シーラを守ることにも意識を割かなければならないのだが。
やがて、巨大な城壁が前方に見えてきた。
「あれは王都と王宮を隔てる城壁だ。王宮はあの向こうにある」
「破壊するぜ?」
「あ、ああ……そのほうが早いか」
「ほかに道があるなら」
「いや、破壊してくれ。別の出入り口には兵士が回されているはずだからな」
「了解」
うなずき、シーラの前に出る。城壁は高く、厚い。が、王都の外周を囲う城壁よりは薄い。それが王宮と王都の距離感であり、王都と外界の距離感よりは近いということを示しているのかもしれない。カオスブリンガーを両手で握り、跳ぶ。速度を加味した一撃は、難なく城壁を破壊し、破壊音を轟かせながら破片や粉塵を撒き散らした。
城壁に開いた大穴に飛び込めば、そこは王宮の前庭であり、王宮内の守備についていた兵士たちが慌てふためきながらこちらに向かってくるのが見えた。
バンドールの王宮とは、石造りの巨大な建造物であり、古めかしさが漂っていた。多くの国の多くの都市と同様、長い歴史を誇る建物なのだろう。バンドールそのものが長い時を経て、いまに至っているはずだ。そんな感想を抱いている場合でもない。王宮の守備兵が接近してきている。倒すのは問題ないが、戦わないのならそれに越したことはない。
シーラを振り返る。
「これからどうする?」
「こっちだ」
シーラは、迷いもせず右手に向かって走りだした。彼女の後を追う。
王宮の外周を大回りに駆け抜け、やがて、彼女は足を止めた。王宮への出入り口があった。正面ではなく、裏手だ。無論、守備兵が屯しており、セツナとシーラが駆け寄ってきたことで、兵士たちは緊張を持ってふたりを出迎えた。
「こ、これなるはバンドール王宮でございますぞ」
「わかっている」
そういったのは、シーラだ。シーラは、セツナが前に出るのを手で遮った。
「いかにシーラ様といえど、アバードの敵となった以上は、ここより先は一歩も通しませぬ!」
兵士のひとりが叫んだが、その目には迷いがあり、手は震えていた。武器を構えてさえいない。それは、ほかの兵士たちも同じだ。同じく、武器を抜かず、シーラと向き合って震えている。おそれ。王女シーラに剣を向けることを極端に恐れている。当然かもしれない。体に染み付いた畏怖は、そう簡単に拭いきれるものではないらしい。だが。
「俺はただ、母上――いや、王妃殿下と話がしたいだけだ。けど、だから退いてくれ、なんてことはいわねえ」
シーラは、ハートオブビーストを構えた。
「シーラ様!」
「剣を抜け。それがおまえたちの仕事だろ。剣を抜いて、俺を止めてみせろ」
「シーラ……」
「セツナ、ありがとな。俺のことを気遣ってくれたんだよな。わかるよ」
シーラが、こちらを一瞥した。碧い目が透き通って見えた。諦めか、決意の現れか。いずれにせよ、その透明なまなざしが、セツナの胸に迫ってきたのは、間違いなかった。
「でも、おまえに甘えてばかりじゃ駄目なんだよ。でなきゃ、なんのためにここにきたのか、わからなくなる。俺は俺だ。これは、俺の人生なんだよ」
「ご覚悟を!」
兵士たちが剣を抜き連ねた。彼らは、そう叫ぶことで、覚悟を決めたのだ。
「ああ。覚悟は、とっくに決めてんだ」
シーラが、地を蹴った。