表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/3726

第百ニ話 王宮召喚師

 まばゆい日差しが、開けっ放しの窓から差し込んできている。

 八月も半ばを過ぎ、日差しは日に日に強くなってきていた。真昼を頂点に上がりきった気温は、午後三時を過ぎたぐらいでは変わらないも同じ。むしろより暑く感じられた。

 吹き抜ける乾いた風は、汗ばんだ体に心地よい。

 ルウファ・ゼノン=バルガザールは、雑務に追われる日々に深い幸福感を覚えていた。疲労もある。が、疲れを圧倒するような幸せを感じるのだ。

 例えば、午後三時のお茶休憩もそうだ。いままでならなんということもない日常風景に過ぎなかったが、いまは与えられた仕事の合間を縫っての休憩であり、そこにはいままでにない充実感が有った。充足している。一日一日の仕事が、この国のためになっているのだと思える。たとえ取るに足らない雑務であったとしても、そう思うことで満たされた。我ながら安いものだと思わないこともないが、それでいいと考えるのだ。

 この国の力になりたいという彼の小さな願いは、着実に叶えられつつある。

 先月、ログナーの制圧に成功したガンディアだったが、その勢いに乗じるということはなかった。当たり前の話だ。圧倒的な勝利を飾ったとはいえ、ガンディアの負った傷は浅いものではない。多くの兵士が命を落とした。敵にもセツナと同等の力を持った武装召喚師がいたという話もあるが、本当のところはわからない。仮にセツナほどの実力者がいたのならば、ログナーがザルワーンの属国に甘んじている必要はなかっただろう。もちろん、セツナがたったひとりでザルワーンの戦力と対峙できるかというと、懐疑的なところだが。

 ガンディアは、属国を奪われたザルワーンが報復とばかりに戦争を仕掛けてこないか冷や冷やしながらも、国内情勢の安定にこそ力を注ぎ始めていた。

 ログナーを取り込んだことによって膨れ上がった人員の整理と、軍の再編。

 レオンガンド王直属の部隊が編成されるとともに、アルガザード=バルガザールが全軍を統括する大将軍となり、デイオン=ホークロウ将軍、アスタル=ラナディース将軍がそれに次ぐ地位を与えられた。アスタル=ラナディースの抜擢に異論を上げるものもいないではなかったが、有能な人材を腐らせる理由はないというレオンガンド王直々の発言の前には沈黙せざるを得なかった。アスタル=ラナディースに辛酸を嘗めさせられたものたちには、彼女の実力が痛いほどわかっていたのだろう。

 論功行賞も行われ、周辺諸国を欺くためセツナに偽装したルウファも、それなりの評価を得た。ルウファとしては思っても見なかったことだが、素直に喜んだものだった。

 最大の戦功を立てたとして皆の前で表彰されたのは、無論、セツナ=カミヤである。ラクサスらとともに敵地に潜入し、任務を完遂しただけでも凄いものだが、彼の活躍はそれだけに留まらない。ログナーにおいて窮地に陥ったガンディア軍本隊を救援し、ログナーの武装召喚師ウェイン・ベルセイン=テウロスを撃破した。さらにはアスタル=ラナディースの本隊を急襲、そのあざやかな活躍で飛翔将軍をして敗北を認めさせたのだ。

 ガンディアの勝利の立役者として、セツナの名は大々的に喧伝された。

 黒き矛カオスブリンガーの名とともに。

 レオンガンドによって公表された王宮召喚師という聞きなれない役職は、そんなセツナの活躍に応えるために新設されたというのがもっぱらの噂であり、おそらく事実だろう。ルウファがそこに名を連ねることが出来たのは、間違いなくセツナのおかげだった。

 王宮召喚師に任命されるとともに、セツナとルウファにはゼノンの称号が与えられた。王宮召喚師の設立に際して急遽設けられた称号であり、騎士ザンに匹敵するものだというのだが、新たに創設されただけあって、歴史的な重みはない。

 だからこそ、励まなくてはならないというのが陛下の言葉だった。セツナやルウファたちが称号の価値を高めていけば、結果的に価値ある称号になるのだ。その言葉を聞いたとき、ルウファは身が引き締まる想いがした。期待されているのだと認識すると、魂が震えた。

 王の期待に応えなくてはならない――それがルウファの理念となった。


 王宮召喚師への期待を象徴するように結成されたのが、《獅子の尾》隊だ。レオンガンド王がみずから作り上げた三つの部隊は、王立親衛隊と総称され、それぞれ《獅子の牙》、《獅子の爪》、《獅子の尾》という隊名を与えられた。王直属の部隊であり、精鋭中の精鋭ともいえる。

 牙と爪は、いわば王の剣と盾である。王の一声で戦場に切り込む爪と、王を守護する牙。

 尾は、獅子の意志の赴くまま、戦場を縦横無尽に駆け巡るのが役目だ。ときに攻め、ときに護るという役割であり、遊撃隊とでもいうべきだろう。そこにセツナという、ガンディア軍の最大攻撃力を充てたのは、王ひとりの判断ではないらしいが、詳しいことはわからない。そして《獅子の尾》の最大の特徴は、隊員が武装召喚師のみで構成されるという点だ。

 セツナの大活躍を目の当たりにしたレオンガンド王が、武装召喚師の実力を認めたということだろう。王宮召喚師や称号の件から考えてもわかるところではあるが。

 とはいえ、現状、隊員はたったの三人だけだった。


 ルウファはいま、《獅子の尾》隊の隊舎の中にいる。

 ガンディア王都ガンディオンの《群臣街》王宮北門付近に位置する、三階建ての屋敷だ。立地的にはかなりの高官でなければ住めないような場所であるといえる。王立親衛隊には相応しい場所かもしれない。元々、ガンディアを捨てた軍師として有名なナーレス=ラグナホルンが個人で所有していた屋敷らしく、彼がガンディアを離れてから放置されていたものを改装、改築したのが《獅子の尾》隊舎なのだ。

 改装費は王宮持ちであり、その点は有りがたかった。もっとも、セツナなら褒章金を使いきらずとも費用の捻出くらい簡単だっただろうが。そこが彼とルウファの戦功の差だろう。悔しさはないし、競うつもりもない。

 とはいっても、広大な敷地に聳え立つ屋敷である。現状、たった三人しかいない部隊の拠点としては、あまりにも大きすぎた。持て余してしまうのも当然の話だった。

 隊章と隊旗が掲げられれば、多少は感覚も変わるのかもしれないが。

 ルウファは、そんなことを薄ぼんやりと考えながら、風に揺れるカーテンを見ていた。目の前の机には、実家から持ち出してきたティーセットを置いている。仕事の書類は脇に追いやり、お昼に買ってきた菓子と、南方特産のお茶でまったりしようとしていた。南方特産のお茶は、レマニフラからガンディア王家への贈答品の一部を下賜されたものであり、それこそ王立親衛隊の役得というべきものだろう。

 芳醇な葉の薫りが、鼻孔をくすぐる。なんとも素晴らしい時間だ。仕事の大半は片付き、先も見えた。数日中に書類を纏め、提出すればつぎの任務まで時間ができるだろう。そうすれば、趣味の研究に没頭できるというものだ。

 机の上の書類は、《獅子の尾》隊に関するものであったり、王宮召喚師に関するものであったりする。隊で王宮召喚師の仕事をするのはどうなのかという話もないではないが、隊が王宮召喚師と同質の存在として認識されているのも事実だったし、それに関するお咎めなどあろうはずもない。

 隊や王宮召喚師の雑務をルウファが行うのも、若い隊長には任せてはおけないというのが表向きの理由だが、実際は、彼には戦いに専念させて欲しい、という王の考えがある。

 それはもっともな理由だろう。彼は、矛を振るえば一騎当千の力を発揮する規格外の存在だ。あり得ないほど凶悪な武器であり、切り札といっても過言ではない。余計なことで手を煩わせ、戦場での働きに支障があっては、それこそ損失だ。

 だったら隊長になど任命しなければいいというのは、短絡的な考えだろう。黒き矛のセツナは、いまやガンディア軍の象徴といえる存在といっていい。そんな彼に相応しい役職を与えないガンディアに魅力などあろうはずもない。活躍すれば活躍しただけの地位も名誉も得られるというのは、多くの人間にとっては魅力的だ。ましてや、彼はバルサー要塞奪還以前にはなんの記録もない、ただの少年だった。

 流星の如く現れ、存亡の危機を救った十七歳の少年。

 そんな彼に破格の待遇で以て報いるのは、ガンディアにとっても大きな宣伝効果があるだろうし、彼の心を繋ぎ止めておく上でも重要な役割を果たすかもしれない。

 セツナは、たったひとりで戦局を左右しうる力を持っている。それがたとえ、黒き矛という異世界からの召喚物の力によるものだとしても、彼が召喚し、彼が行使しているのは紛れもない。彼の活躍を聞けば、是が非でも欲しくなるだろう。既に他国から魔の手が伸びていてもおかしくはないし、その魔の手に彼が応じたとして、責められるものではない。

 彼には彼の人生がある。

 異世界に召喚され、戦争に巻き込まれ、否応なく力を振るってきた少年。彼の心中を考えると、思考が重くなり、滅入ってくる。自分ならどうしただろう。

(俺なら……戦えたかな?)

 ルウファは、自分の根幹となっているものがガンディア王家への畏敬であり、忠誠心であるということを知っている。それは、バルガザール家に生まれ育ったものの宿命とでもいうべき思想だ。ガンディア王家こそが、この世を支える柱であり、天と地のすべてだと信じて疑わない。そう、育てられた。だから、戦場であっても平常心を保つことができる。ひとも殺せるし、皇魔相手だって怯みはしない。王家のためならば、なんだってできる。

 だが、

(セツナの立場なら……?)

 どうだろう。

 わけもわからぬ世界に放り出され、戦うはめになったしまった少年。彼の置かれた状況など、自分のつたない想像力では考えるだけで精一杯だった。

 そのとき、階下で物音がした。だれもいない屋敷の中だ。小さな音でも大きく響いた。玄関の扉が閉じられる音でさえ、大袈裟に響く。

 靴音が、一直線にこちらに向かってくる。規則正しい歩幅なのが、靴音の感覚でわかる。そのおかげで、隊舎に乗り込んできた人物がだれなのか想像できた

(ファリアさんだな)

 見当をつけたとき、正面の扉が軽く叩かれた。

「どうぞ」

 促すと、すぐにドアが開かれ、予想通りの人物が姿を見せた。ファリア・ベルファリア。

「無用心な隊舎ね。賊に入られても知らないわよ」

「ここまで賊に入られたら、それこそ王都の警備体制を見直さないといけませんよ」

「それもそうよね」

 心底どうでもよさそうな相槌に、ルウファは、笑みをこぼした。彼女は、自分に素直なのだろう。興味の有無が態度に現れている。が、それは些細なものだ。じっくり観察でもしていない限り気づかないほど微々たるものなのだ。

「なにかあったんですか?」

「なにかなければ来てはいけないのかしら? ここ、《獅子の尾》の隊舎よね」

 ファリアは、室内を見学しているかのように視線を漂わせていた。広い空間だ。ルウファの肩書きに相応しい部屋だとはいえ、ひとりで使うには広すぎる。調度品などを配置すれば、室内の空白を幾分か埋めることもできるだろうが。それもまだ先の話だ。使用人すら雇っていない。

「そういうことではなくて……」

 ファリアは、武装召喚師の互助会ともいえる《大陸召喚師協会》に属していた。それはルウファも同じだが、役職を持たない彼とは違い、彼女は協会のガンディア支部の局員であった過去がある。いまではその役職も辞し、ガンディア王親衛隊《獅子の尾》の隊長補佐になっている。

 そこからもわかるのが、《獅子の尾》という新設組織のいびつさだ。たった三人の隊員が、隊長、隊長補佐、副長を務めている。隊長補佐と副長の違いについては議論の余地を残すところだが、そんなことに時間を費やしているほど暇でもない。それに三人だけの部隊における肩書きなど、それこそ名ばかりのものかもしれない。

 副長であれ隊長補佐であれ、雑務に追われ、日々を過ごしている。

「わかってるわ。それに、用事があってきたのも事実よ」

「ですよね」

 相も変わらぬやりとりだと思わざるを得ない。が、それがわるいわけでもない。ファリアは楽しい人物だし、話し相手にはうってつけなのだが、時と場合によるものだということがよくわかる。雑談が盛り上がって仕事が疎かになりかねない。

 それに、彼女は男から見てとても魅力的な女性だった。理知的な容貌にせよ、肉感的な体型にせよ、多くの男性の目を引くに違いない。

 ただ残念なのは、《大陸召喚師協会》の局員服を身に付けなくなったことだ。局員を辞したのだから当然だが、女性の身体的特徴をこれでもかと強調するようなあの制服は、目の保養に素晴らしい力を発揮したものだ。

 もっとも、男性召喚師からは暗に熱烈な支持を得る一方で、女性召喚師からは不評極まりなく、意匠を変更して欲しいという声が上がっているという。いずれいまの制服は廃止されるだろう。

「陛下からの命令よ。といっても、いますぐにどうこうって話ではないのだけれど」

「へ、陛下から、ですか」

 声が上擦ったのは、予想外に過ぎたからだ。そしてファリアがいままで王宮に上がっていた事実に気付き、慄然とする。

 確かに、《獅子の尾》隊の隊員は、王宮に登殿する資格を与えられている。王立親衛隊の設立理念を考えれば当然の権利だ。いつでも陛下の元に馳せ参じられなければ、親衛隊とは呼べないだろう。

 しかし、登殿する資格を行使し、平然と王宮に出入りしているのは《獅子の尾》ではファリアくらいのものだった。

 隊長は王宮には興味もないのだろうし、必要なときに登殿すればいいと思っているに違いない。一方、ガンディオン生まれのルウファにとって、獅子王宮は王の住まう神聖な領域であり、資格を行使するのも畏れ多かった。

 だからこそ、というのもあるかもしれない。

 戦場以外では役に立たない隊長と、雑務に追われる副長に代わって、王宮との繋がりを絶やさないように動いているのかもしれなかった。

 無論、陛下が作り上げた陛下のための部隊だ。特別視されることはあっても、蔑ろにされることはないだろうが。

 だとしても、王宮の内情を知っておくのは悪いことではない。今後の指針になる。

「そこまで驚くことかしら」

「い、いやあ、予想もしてなかったから」

「栄誉あるバルガザール家の次男の反応とは思えないわね」

「は、はは……」

 辛辣な評価には笑ってごまかすしかなかった。彼女のいう通りだ。高名な将軍を父に持ち、兄は騎士としての道を極めんとしている。そんなふたりに一歩でも近づきたくて、術を学び、修めた。

 そして、幸運に恵まれ、登殿の資格を得るまでになったのだ。

 怖じ気づいている場合ではない。

(それもわかるけど……)

 胸を張って登殿するには、戦功があまりにも足りない。

 いまこうしてファリアとともにいることができるのは、運によるところが極めて大きいのだ。巡り合わせが、ルウファをここまで導いてくれた。実力ではない。だから、まだ早いのだと考えてしまう。

 それこそ、愚かな考えなのだということも、頭ではわかっているのだが。

「それで、陛下からの御命令というのは?」

 さすがに緊張を覚える。どんな些細なものであれ、直接の命令なのだ。失敗は許されない。

「陛下がマイラムに向かうから、セツナにその護衛につけ、って話よ」

「陛下の護衛……あ、セツナに、ってことは俺は不要ってことですか」

「《獅子の尾》隊総出で護衛任務につくわ」

「ということは、ファリアさんもですよね」

「当たり前でしょ」

「そりゃそうか」

 ふとした瞬間、彼女が《獅子の尾》隊とは無関係の人物だと思えるのは、きっとルウファと立ち位置が違いすぎるからだ。

 ルウファは王に絶対の忠誠を誓い、王宮召喚師としての自分に誇りを持っている。セツナも王に忠実だ。だが、彼女はどうだ。《獅子の尾》隊に属してはいるものの、王宮召喚師と任命はされていない。ルウファと同程度の活躍はしているのにもかかわらず、だ。それについては陛下と彼女の間でなにかしらの了解があるらしいが、詳しく聞くことは憚られた。

 ファリアは、《獅子の尾》にあってだれよりも王との距離間が近いにも関わらず、セツナやルウファよりも距離を取っているように感じられた。

「で、肝心のセツナは?」

「いつものところじゃないですか?」

「あー、やっぱり?」

 答えてから、セツナが隊舎を出かけるときに聞いておけばよかったかと一瞬後悔したものの、よく考えなくても彼が向かう先など数えるほどもなかった。王宮か、ルウファの実家か、《蒼き風》が借りている宿屋くらいのものだ。そして、セツナは王宮に足を運ぶことはないといっていいし、バルガザール家に用事があるわけもない。結局、一択なのだ。

 もっとも、彼が、突然、王都内の他の場所へ足を向ける可能性もないとはいえない。が、その可能性は限りなく低い。

「熱心よね、彼」

 しみじみと語るファリアの言葉通り、セツナはいま、訓練に夢中だった。



 床にぶっ倒れた少年を見下ろしながら、ルクス=ヴェインはその日何度目かのため息を浮かべた。

「もうやめときなよ。才能ないよ、君」

「ま、だまだ……」

 少年は息も絶え絶えといった様子で、立ち上がる素振りも見せない。全身汗だくで、ところどころ青い痣になっていた。防具も身につけずに訓練をするからだが、それを強要したのはルクスのほうだ。無論、それはルクスが彼の師匠となった際に設けた条件のひとつであった。彼のために自分の時間を費やすのだ。それに見合うだけのなにかが必要だと、ルクスなりに考えた。

 無論、他人を痛めつけて悦に浸るような趣味はない。そういう理由で考えた条件ではなかった。

 彼は、強くなりたいといった。

 肉体的な意味だけではなく、精神的にもだ。

 それには痛みを知ることが大事なのではないか。特に、彼のような召喚武装の力に溺れる人間は、痛みを知ることを放棄しがちだ。痛みを知れば、想像力が生まれる。他人に与える痛みが、実感として想像できる。それは力の制御へと繋がる。無駄な力の消耗を抑えることは、召喚武装を支配する上でも重要なことだ。

 もちろん、そのために彼の肉体を破壊しては本末転倒に他ならない。そんなことをすれば、ルクスはこの国にいられなくなるだろう。王は訓練中の事故と割りきってくれるかもしれないが、市民がそれを許さないだろう。それほどまでに彼の人気は高まってきている。

 彼を一目見たいと、宿の外に人だかりができるほどだ。宿にとってはいい迷惑だったが、最近では押し寄せる市民に食べ物や飲み物を買わせることで利益を上げているらしい。がめついにもほどがあるが、文句がいえる立場でもない。おかげで、傭兵団への宿の主人の対応がよくなったのは皮肉な話だ。

 訓練場所は、宿の敷地内にある小屋だ。以前は倉庫として使われていたのだが、訓練場所を確保するために無理をいって空けてもらったのだ。そのときこそ主人は不平を隠さなったが、彼を目当てに訪れた市民からの儲けで新しい倉庫の見込みが立つと、途端笑顔を絶やさなくなった。

(現金な話だな)

 それが人間というものだし、そういう正直な人間は嫌いではなかった。

 そんなことを考えながら、ルクスは、手にした木剣の剣先をもてあそんでいた。地に這いつくばったままの少年が、顔を上げていることにも気づいている。彼の赤い瞳がこちらを射抜くように見据えているだろう。気力を失ってはいないのは、その視線の強さからもわかる。ただ、体がついていかないのだ。疲労と苦痛が、彼の肉体を支配している。

 ルクスは、木剣を一振りすると、切っ先を少年に向けた。

「やる気があるなら立ちなよ。気を失うまでやらないと、気がすまないんだろ? でなきゃ、強くなれないと思ってる。そういう幼稚な考え、嫌いじゃないさ。だから立ってごらん。望み通り、完膚なきまでに叩きのめしてあげるからさ」

 我ながらくだらない挑発ではあったが、彼には効果があったらしい。

 少年は、苦痛に喘ぎながらも、なんとか立ち上がった。構えた木剣の剣先は虚空をさまよい、敵を見失いかけている。しかし、彼の双眸は、より烈しく輝いているように見えた。生気がある。いや、殺気かもしれない。黒き矛を手にし、戦場に赴いたときのようなまなざし。

(黒き矛のセツナ……か)

 ルクスは、木剣を構えながら、あの夜から今日に至るまでの一連の出来事を思い出していた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ