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第千十六話 最期の授業(前)

(そろそろ戦いが始まる頃合いか)

 ナーレス=ラグナホルンは、石の天井を睨みながら、胸中でつぶやいた。

 独り言を発するのも嫌いではないし、考えをまとめるときには言葉として発することも少なくはなかった。とくに参謀局本部で戦術をまとめている時などは、よく独り言を発していたこともあり、参謀局の局員たちに気味悪がられたものだ。真夜中、奥の部屋からぶつぶつと話し声が聞こえてくれば、気味悪がるのも不思議ではない。参謀局本部に巣食う亡霊の噂は、一時期ガンディオンを騒がせたこともあるらしい。

 もっとも、亡霊の正体がナーレスと判明してからは、そんなことはなくなったのだが。

 そんなことを思い出して、彼は、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑った。いや、笑おうとしたのだが、顔の筋肉がまったく動かないこともあって、笑うに笑えなかった。表情を作ることさえできなくなっている。これでは泣くこともできないのではないだろう。もはや泣くことなどはないし、泣くという演技をする必要もないのだが、そんなことがどうしようもなく気になった。

 命の時間が終わろうとしている。

 刻一刻と、時計の秒針が刻む音と同じ速さで、あるいはそれよりもずっと早く、死の瞬間が近づいてきている。

 なにもかも、突然だった。

 龍府にいるころ――そう、レオンガンド王から休暇を賜ったときから、龍府に滞在している間というのは、全身に力が漲り、それこそ羽が生えたかのように体が軽かったことを覚えている。久々、いや初めての長期休暇が嬉しかったのか。それとも、命が最後の時間をくれたのか。

 おそらくは後者だろう。

 炎は、燃え尽きる瞬間、激しく燃えるものだという。 

 命の炎もまた、最後の瞬間を迎えるために激しく燃え上がったのかもしれない。

 燃えに燃えて燃え尽きて、尽き果てようとしているのがいまの自分なのだ。

 急激に痩せ衰え始めた体の変化を止めることは、ナーレスには不可能だった。ガンディアが誇る軍医マリア=スコールの診断でも原因は不明であり、もはや手の施しようがないというの実情のようだった。。せめて栄養を取ることを進められたが、気休めになるかどうかさえも怪しいということだ。

 マリアの腕は信用に値するし、なにも疑ってはいない。彼女はこれまで何百、何千の患者、負傷兵を見てきた軍医の中の軍医だ。彼女のいうことに間違いはあるまい。だから彼は彼女の言いつけ通り食事を取り、栄養を補給してきた。しかし、なにを口に入れ、なにを胃に詰め込んだところで、数分後には吐瀉物となって彼の衣服を汚した。

 胃が受け付けないらしい。

 体が弱っているからなのか、毒が猛威を振るっているのか。

 両者かもしれないし、もっと別の何かなのかもしれない。

 いずれにせよ、痩せてきている原因のひとつはそこにある。食べられないのだから、肉がつくはずがないのだ。ただ、失われていくだけだ。

(この生命と同様……)

 手からこぼれ落ちていくだけのことだ。そして、この手からこぼれ落ちたものは、もう二度と拾い上げることはできないのだ。それがわかっているから、彼は無理をして、ここまできた。

 時間がない。

 残されたわずかばかりの時間をどれだけ有効に使えるのか。

 彼はそればかりを考えていた。

 生きている間にやれることはやったが、死んでからやれることも、彼にはある。

 みずからの死も、利用しなければならない。

 そのために彼はここにいる。

 龍府を発ち、シーゼル攻略の指揮を取った。戦力は十分。難しい戦術を用いるまでもなかった。強力な部隊をぶつけるだけで事足りた。ナーレスの想定通り、シーゼルは容易く落ちた。いや、想定よりずっと早く陥落したというべきだろう。ルウファ・ゼノン=バルガザールが想像以上の働きを見せてくれた。彼の活躍がシーゼルの早期制圧に役だったことは言うまでもない。

 シーゼルが簡単に落ちたのには、王都バンドールのアバード軍がシーゼルに援軍を寄越さなかったことも大きい。シャルルムのタウラル侵攻が、バンドールへの牽制となった。わずかばかりのバンドールの戦力を割いてシーゼルに援軍を差し向けるよりも、王都の防衛にこそ注力するべきだという判断を下したのだ。結果、シーゼルはガンディアの、タウラルはシャルルムの手に落ちた。

 アバードにしてみれば、想定の範囲内の出来事、ということにはなるが、大きな痛手であることに変わりはない。たとえば王都の総勢四千の戦力の内、半数でもシーゼルに差し向けていれば、状況は変わったかもしれない。セツナにいわせれば、ベノアガルドの騎士団は恐ろしい力を持っているというのだ。ナーレスたちガンディア軍も苦戦を強いられた可能性もある、

 だが、アバードはそうはしなかった。

 王都が手薄になることを恐れたのだ。

 タウラルに攻め込んだシャルルムが、タウラル制圧の余勢をかって、バンドールに攻め寄せてくる可能性もないとはいえない。逆に、タウラルに援軍を差し向ければ、今度はガンディア軍がシーゼル制圧後、すぐさま王都に押し寄せてくる可能性がある。アバードは考えに考えた末、シーゼルとタウラルを見捨てることにしたのだ。

 その結果が、現状だ。

 ナーレスは、寝台の上で横になったまま、目を閉じた。目を閉じれば、そのまま永久に瞼が開かなくなるのではないかという恐れがあったものの、目を開けていても視界が暗いことに変わりはなく、また、死がいつ訪れるものかわからない以上、構うものでもない。瞼を下ろし、視界が闇に閉ざされるのを認めると、彼は脳裏に戦場を描いた。これまで蓄積してきた情報が、王都バンドール近郊の風景を浮かび上がらせていく。

 シーゼルから北東、王都バンドール南方の小高い丘の上にガンディア軍の本陣が置かれていることだろう。軍師を任せたエイン=ラジャールなら、そのようにするはずだ。平地よりは高所のほうがよい。戦場を見渡すことができる上、本陣への攻撃が困難になるからだ。

(先陣は、ドルカ軍と《獅子の尾》か)

 ドルカ=フォーム率いるログナー方面軍第四軍団は、エイン=ラジャールの推薦によって今回のアバード侵攻に加わっている。エインはどうしても彼に手柄を挙げさせたいのだ。彼の考えもわからなくはない。エインは、未来を見据えている。

 ドルカ軍だけでは心もとないのは、エインは百も承知だろう。だから《獅子の尾》をつけるはずだ。総大将のセツナもそこに加わっているかもしれないし、セツナがいるということで、シーラも先陣にいるかもしれない。つまり、本陣には軍師のエインと彼の部下たち、ザルワーン方面軍大軍団長ユーラ=リバイエンがいると考えていい。

無論、先陣がドルカ軍なのは、ドルカに手柄を与えたいからだけではない。軍師が私情に流されるはずもなく、当然、力量を考えたうえでの配置であろう。ログナー兵は精強だ。少なくとも、ザルワーン兵よりも強いと見てよく、先陣を任せられるのはドルカ軍を置いてほかになかった。そこに《獅子の尾》が加われば敵なしといったところ、といいたいところだが、そうはいかないのがこの戦いだ。

(さて……)

 ナーレス=ラグナホルンは、考える。

 最期の時間――命の残り火が消え去ろうという時間を用いて、考える。

 エイン=ラジャールは、どのような戦術を用いて、ベノアガルドの騎士団と当たるのか。

 敵は、ベノアガルドの騎士団だけではない。

 そのことは、彼と話し合っている。


「バンドール攻略における軍師は、あなたに任せます」

 ナーレスが告げたのは、シーゼルを制圧し、セツナたちとの合流も果たした後のことだ。六月二十一日。シーゼルから出撃する直前のこともあり、シーゼルそのものがばたばたしていた頃のことだった。当然、彼は寝耳に水といった顔をした。

「はい?」

「あなたは将来、ガンディアの軍師になるのでしょう? それならば、軍師としての経験を積んでおくのも悪くはない。いえ、あなたは戦術家として既にいくつもの戦場を経験していましたか」

 ナーレスが苦笑したのは、エインがこれまで数多の戦場を経験し、ガンディアの勝利に貢献してきたことを思い出したからだ。そういった事柄がナーレスがエインを参謀局に引き入れるきっかけとなっている。アレグリア=シーンも同じだ。同じく、見事な戦術を用いてガンディアの勝利に貢献したからこそ、参謀局の設立に際し、特にふたりを引き抜いたのだ。

 後継者が見つかったかもしれない。

 死に至る毒を得たナーレスにとって、これほど嬉しいことはなかった。

 そして、後継者が見つかったかもしれないという考えは、間違いではなかった。少なくとも、参謀局での日々は彼に充実感を与えてくれた。ふたりの後継者の存在が、ナーレスから恐れを消し去ってくれた。

 死ぬことが怖いのではない。

 自分が死ぬことで、ガンディアに不利益をもたらすことのほうが、ずっと恐ろしい。

 後継者が見つかったということは、自分の死によって不利益をもたらすことはないということだ。むしろ、利益をもたらす可能性のほうが、高い。

 ふたりは若い。

 経験を積めば、ナーレス以上の軍師として開花するかもしれない。いや、するに違いない。確信は、彼に安らぎを与えてくれた。

 死に抗わなくなったのは、そのせいもあるのかもしれない。

「局長……突然、どうしたんです?」

「見ての通りですよ」

 ナーレスは、自身の体を指し示すようにした。エインは痛ましいものをみる表情を隠さない。臆面もなく、沈痛な面持ちをしている。心根の優しい少年なのだ。今年で十七歳になる。まだ若い。ナーレスよりも半分以下の年齢でしかなく、身も心も健康そのものだ。

 彼には、将来がある。

 光芒きらめく未来がある。

 羨ましい。

「わたしには、もはや、ここから移動するだけの体力が残っていないようなのです。戦場に立つなど、とてもとても」

 ナーレスが苦笑すると、エインはいまにも泣きそうな顔になった。彼がそのような表情を見せるのは、セツナかアスタル=ラナディースの前だけだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。ナーレスは胸中で苦笑しながら、彼の目を見た。澄んだ目。軍師にするにはもったいないほど綺麗な目をしていた。

「局長……」

「わかりましたね? バンドール攻略に関する戦術はエイン=ラジャールが立てなさい。これはわたしからの最期の授業と思ってくださって結構です」

「最期の授業……ですか」

「ええ」

 ナーレスが平然とうなずくと、エインの瞳が揺れた。感情の豊かな少年だ。そして、心優しい。大粒の涙がこぼれていた。体が自由に動くのなら、その涙を拭ってやりたかったが、どうやらそんなことさえできなさそうだった。

「この体も、もって十日といったところでしょう。いえ、十日も持つかどうかさえ疑わしい。マリア先生は安静にし、栄養さえ取っていれば、王都に変えることだって不可能ではないといっていましたが、体が栄養を受け付けないのでね……どうしようもない。よって、最期の授業です」

 ナーレスは、エインを見つめながら、彼の将来を想った。彼はきっと、よい軍師となるだろう。アレグリアとともにガンディアの頭脳として君臨してくれるはずだ。そして、ふたりの経験が蓄積され、次代へ繋がり、次代がさらにつぎの世代へと繋がっていく。

 連綿と。

 そうやって歴史は紡がれ、時代は続く。

 ナーレスは、その最初の扉を開いたにすぎない。

 永遠に長く続くであろうガンディアの歴史の最初の扉。

「アレグリアさんにも授業をつけてあげたかったが、彼女には王都方面を任せていますし、それが最期の授業ということで勘弁願いましょう」

 ナーレスは、アレグリア=シーンが龍府から王都へ出発する際の名残惜しそうな顔を思い出した。アレグリアもまた、エインと同じように優しい心根の持ち主だった。軍師などという悪辣な役割を押し付けるにはもったいないくらいに純粋で、穏やかな女性だった。

 彼女が名残惜しんだのは、ナーレスとの別れだ。

 彼女には、わかっていたのだ。

 あのとき、龍府を離れれば、もう二度と生きているナーレスと会うことはできないのだと。

 理解し、だからこそ、彼女は別れを惜しんだ。

 惜しみながらも、ナーレスの言いつけを守るため、王都へと向かった。

 エインとアレグリア。

 性別も年齢も人柄もまったく異なる人物だが、心根が優しいという点では同じだった。

 たったひとつの共通点こそ、軍師となるための能力なのかもしれない。

 ふと、そんなことを想った。


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