第千十五話 開戦
戦いが始まったのは、二十六日、正午を回ってからのことだった。
王都バンドール南方に展開したアバード側の軍勢が、にわかに動き出したことがきっかけとなった。
まっさきに動き出したのはベノアガルドの騎士団であり、騎士団の歩兵部隊が一斉に前進を始めた。騎士団員のほとんどが、南方に布陣するガンディア軍に向かってきている。約三千人。一糸乱れることのない動きであり、遠目から見ても壮観極まりない光景だった。地鳴りが聞こえるのではないか。そんな気さえさせる軍勢であり、ファリアは、馬上、右腕にオーロラストームを持ち、左手で手綱を握りながら気を引き締め直した。
《獅子の尾》は、ガンディア軍ログナー方面軍第四軍団、通称ドルカ軍と同じく最前線を任されていた。ガンディア軍の布陣はというと、バンダールという丘に本陣を置き、その本陣の北側三方向に部隊を展開する形になっている。本陣の北側正面にザルワーン方面軍第七軍団、北西側に同じく第三軍団、北東側に同じく第一軍団が配置され、ドルカ軍は、第七軍団よりも北側に位置している。つまり、先陣であり、真っ先に敵軍と戦闘になる部署といってよかった。
部隊配置を行ったのは、無論、今回の戦いで軍師を務めるエイン=ラジャールであり、ドルカ軍に先陣を任せたのは、彼がドルカを信頼しているからだろう。そして、ドルカ軍に《獅子の尾》を配備したのは、先陣こそもっとも苛烈な戦場になるからにほかならない。
苛烈な戦場こそ、武装召喚師には相応しいのだ。
「騎士団がこちらに向かっているということは、シャルルムにはアバードの本隊が当たるようですね」
徒歩のルウファが、前方を睨みながらいった。彼が徒歩なのは、彼の場合、馬は足かせにしかならないのだ。新式の軽装鎧の上から纏っている白衣を見ればよくわかる。白い外套にも変化する召喚武装シルフィードフェザーは、優れた飛行能力を有している。
「シャルルムを千人あまりのアバード本隊で抑えている間に、騎士団でガンディア軍を制圧する――っていう考えかな」
幾分難しい顔をしたのは、ドルカ=フォームだ。《獅子の尾》に混じって最前線にいるというのは、軍団長としてあるまじきことなのだが、彼はそんなこと一向に気にしていないようだった。戦闘が始まる頃には後方に下がるつもりであるらしいが。彼もまた、新式装備と呼ばれる防具に身を固め、馬に跨っている。腰に帯びている軍用刀は正式に採用されているものではないが、彼が気に入って使っているものだ。
「セツナ様のお話しによれば、ベノアガルドの騎士団は、特異な力を駆使するとのことです。三千名とはいえ、油断できません」
「ええ」
ファリアは、ニナ=セントールの説明に強くうなずいた。ニナも馬に跨がり、ドルカの脇に控えている。
自然、オーロラストームを握る手に力がこもる。ニナがいったことは、軍議の際、セツナから直接説明を受けている。セツナは、シーラとセンティアに潜り込んだ際、ベノアガルドの騎士団員と交戦したというのだ。そのとき、騎士たちが特異な力を発揮するのを目撃し、また、騎士たちは黒き矛を用いなければ対応できないほどの能力を持っているということだった。
騎士団員全員が同じような能力を持っているとは言い難いものの、手強い相手であることは間違いなく、一般兵が相手だと考えてはならない、ということのようだ。
「黒き矛じゃなきゃ対応できないってさ、あたしたちじゃ対応できないっていってるようなもんじゃないの? っていうか、そんなのありなわけ?」
ミリュウが口先を尖らせたのも、理解できなくはない。特に彼女は黒き矛に秘められた力というものを実感として理解している数少ない人物だ。セツナとミリュウとマリク=マジクだけが、黒き矛を使い、その圧倒的な力に触れている。ミリュウはその力に飲まれかけ、その結果、セツナに依存するようになったのだが。
そんな彼女もまた、新式装備に身を固めている。戦場を蹂躙することこそ武装召喚師の役目ということもあって、ルウファやファリアと同様、軽装の鎧だった。軽鎧であっても旧式の防具よりも防御力があるといい、ある程度の威力の矢なら弾き返すという。そもそも戦場を動き回るミリュウが、矢に撃たれることなど少ないのだが、用心に越したことはない。優秀な防具を装備しないという理屈もない。
手にしているのは、真紅の太刀だ。一見何の変哲もない、装飾の派手な刀なのだが、歴とした召喚武装であり、彼女はラヴァーソウルと命名している。彼女も徒歩であり、それもまた、戦闘の際、邪魔になるからだ。
「御主人様も全力を出せなかったということですので、わたくしどもに対応できないかというと、そうではないかもしれません」
そういったのは、レムだ。彼女は、ドルカ軍の中でも極めて浮いた存在としてそこにいた。彼女も馬を用いない。戦闘の際、邪魔になるからだ。が、彼女はこれから戦いに赴くような格好ではなかった。鎧兜を身に付けてもいなければ、軍服を着込んでいるわけでもない。いつもの使用人の格好であり、まるで働き先の屋敷から抜け出してきて迷い込んできたかのような様相だった。しかしながら、彼女が手にする大鎌は、屋敷で働くような女中が持つべきものではなく、命を刈り取る死神にこそ相応しい代物のように思える。
「まあ、戦ってみないとわからないのは同意だけどね、油断はしちゃあいけないってことだ」
ドルカがレムに同意し、同時に忠告を発すると、ミリュウが彼を睨んだ。
「あたしたちが油断なんてするわけないでしょ」
「あー、そりゃそうだ。ってわけで、期待してるよん」
「まっかせなさい。王立親衛隊《獅子の尾》の実力、見せつけてあげるわ」
ラヴァーソウルを握りしめながら、ミリュうが奮然と言い放った。
ドルカが馬を寄せてきたかと思うと、囁くようにいってきた。
「ミリュウちゃん、気合入ってるねー」
馬を寄せてきたのは、ミリュウに聞かれるとまずいと判断したからだろうが。
「セツナを堪能できない不満をぶつけるつもりなんですよ」
「セツナ様を堪能……?」
ニナが首を捻る傍らで、ドルカはひとりにやりとする。彼は理解したのだ。
「なるほどね。ファリアちゃんも?」
「なんでそうなるんですか。わたしはわたしの任務をこなすだけです」
ファリアはドルカに半眼を注いだものの、彼はにやにやしたままだった。つとめて冷ややかな視線を注いだつもりだったが、まったく効果がないのはどういうことなのか。ファリアは、内心の動揺を隠せなかった。
「あ、御主人様!」
「え、セツナ!? どこよ!?」
「ファリアちゃーん、セツナ様きたって」
「聞こえてますよ」
ドルカのにやけ顔に嘆息を浮かべながら、ファリアは馬首を巡らせた。レムとミリュウが駆け寄る方向に目を向けると、隊列が綺麗にふたつに割れる中、セツナを乗せた黒馬とシーラを乗せた白馬が近づいてくるのが見える。ドルカ軍の兵士たちが口々に歓声を上げているのは、セツナの参戦ほど心強いものはないということを理解しているからだろう。
セツナが、ミリュウとレムを引き連れながら、こちらに馬を寄せてくる。ファリアは、妙な緊張を覚えた。まさか、彼が真っ先にこちらに向かってくるとは思わなかったからだ。
「セツ……隊長、どうされたんです?」
「俺は総大将であると同時に攻撃の要だからな」
セツナはそういって、自分の手を見下ろした。右手には黒き矛が握られている。彼が前線に出てきたのは、敵陣に動きがあったことも影響しているようだ。黒き矛の感知範囲は極めて広いという。本陣から敵陣の動きがわかったのだとしても、不思議ではなかった。
「セツナ様がくれば百人力、いや、千人力、いやいや、万人力!」
「ドルカさんって……いや、いまはいいや。敵が動いたようですね」
「ええ。あと半時間もすれば、射程範囲に入りますよ。迎撃準備は万端です」
「あと半時間か」
セツナは、ドルカの話を聞きながら、前方を見やるようにした。彼の目には、敵軍の動きがはっきりと、余すところなく見えているのかもしれない。そして、見えている以上、感覚的にはものすごく近くいるように思えるはずだ。その感覚は、通常人にはわかるはずがない。武装召喚師であるファリアにさえ、想像しにくいものがある。黒き矛の使い手と、他の召喚武装の使い手は、必ずしも同じものとは言い切れないのだ。
黒き矛の絶大な力を見れば、一目瞭然だ。通常の召喚武装では持ち得ないほどの力を秘めている。それだけの召喚武装の補助なのだ。見える世界も違えば、感覚も大きく異なって当然だった。
「セツナ……」
「ん? どうした?」
セツナがミリュウに問いかけたのは、ミリュウが、セツナをぼんやりと見上げていたからだ。まるで戦場にいることさえも忘れたかのようなミリュウの態度は、彼女がセツナに焦がれていた様子からは想像もつかない。
ファリアも、きょとんとした。ミリュウならば、セツナに飛びつくかと思ったのだ。実際、それほどの勢いで彼に駆け寄っていったのを目の当たりにしている。
「い、いや、なんでもないの……なんでも、ないのよ!」
「おい、ミリュウ? いったいなんなんだ?」
慌てふためくようにしてセツナの側から走り去ったミリュウに対し、セツナはしばし呆然としていた。セツナがそうなるのも当然だろう。ミリュウらしくない言動だった。が、彼女の性格を考えれば、わからないではない。
「まったく、いじらしいんだから」
「そういうところは可愛らしいと想いますよ」
「そうね」
レムの感想に、ファリアは小さく微笑んだ。戦闘目前。緊張が極致に達しようというときにあって、ミリュウの行動は、緊張を緩和させる役割を果たしている。緩みきるものよくないことだが、緊張しすぎるのも決していいことではない。極度の緊張は、柔軟な対応を不可能にする。
「なんなんだ?」
「御主人様には決してわからないことでございます」
レムは、困惑するセツナに向かって、そんな風にいった。笑顔を浮かべ、恭しい態度ではあったが、慇懃無礼極まりない。
「俺にわからないこと?」
「はい。ですので、いまは考えなくとも結構にございます」
「おい、レム、おい!」
セツナは、去りゆくレムに向かって手を伸ばし、呼び止めようとしたが、彼女がセツナの呼びかけに応じることはなかった。レムは、ミリュウとは違い、セツナをからかっているのだ。
「どういうことだよ、ったく」
「さあ、なんでしょうね?」
「ファリア?」
「隊長、戦いが終わったときのことを覚悟しておいてくださいね」
「どういうことだよ、おい、ルウファ」
ルウファにまで煽られて、セツナは困惑しきりだった。
そんなセツナの様子を遠目に見ていると、シーラが馬を寄せて、話しかけていた。
「人気者は辛いな」
「どういうことだかさっぱりだ」
「ま、ともかく、いまは目の前の敵に集中することだな」
「わかってるさ」
セツナは、シーラの言葉にうなずくと、周囲を見回した。不意に目が合ったかと思ったが、彼の目線はファリアの目線よりも少しばかり上に注がれていた。つまり、ファリアの頭の上だ。
「ラグナ!」
セツナが叫ぶと、ファリアの頭頂部に軽い衝撃が走った。いまさっきまでファリアの頭の上で丸くなっていたラグナが突如として飛び上がったのだ。ラグナはドラゴンとはいえ、きわめて小さい。その小さな体が飛び立つ際の衝撃など、痛みにさえならなかった。
緑色の小さな物体が視界を過ぎったかと思うと、セツナの目の前まで浮遊していった。小さなどよめきが起きたのは、やはり小さくともワイバーンはワイバーンであり、見慣れないひとびとに驚きを与える存在にほかならないからだろう。さすがにドルカとニナはもう慣れたようではあったが、
「なんじゃ?」
「シーラを頼む」
セツナの一言に、ラグナが魔法を行使することができるということを思い出す。センティア侵入時も、シーラの身を守ったのは、ラグナの魔法だったという。ラグナの魔法が攻撃にも使えるのならば、ガンディアはとんでもない戦力をえたということになるのではないか。ラグナが力を蓄え、水龍湖で対峙したときの姿にまで成長すれば、ガンディアに敵がいなくなるのは疑いようがない。そこまで成長するのに何百年もかかるというのなら話は別だが。
「守れというのじゃな。よかろう」
「セツナが護ってくれるんじゃないのか?」
「護るさ。念には念を入れて、だな」
「わかってるよ。頼んだぜ、ラグナ」
「うむ。わしに任せておくがよいぞ」
ラグナは鷹揚にうなずくと、シーラの右肩に降り立った。頭の上ではないのは、彼女が兜を被っているからかもしれない。シーラは、鎧兜を着込み、ハートオブビーストを手にしている。
「さて、いくか」
馬上、セツナが黒き矛を掲げた。
そのとき、ドルカ軍の兵士たちが歓声を上げた。セツナはまったくそんなつもりはなかったのだろうが、きょとんとしたあと、すぐさま状況を理解して、再び矛を掲げた。禍々しくも破壊的な漆黒の矛は、晴れ渡った空に黒い切れ目を入れるかのようだった。
そして、そんなセツナがとてつもなく頼もしく思えるとともに、彼が側にいるというだけでいつになく安堵を覚える自分を認識して、ファリアは胸中で苦笑した。
彼がいる限り、負ける要素はないに等しい。
そんな確信が安堵を覚えさせるのだろう。