第千十一話 対陣(一)
シーラ王女救援軍と銘打ったガンディアの軍勢がシーゼルから出撃したのは、二十三日のことだ。
シーゼルの支配を維持するための部隊を残しても、五千ほどの兵数で出撃することができている。シーゼルに残ったのは、ザルワーン方面軍第七軍団の五百名であり、たった五百名で大丈夫なのかという不安がないではなかったが、じきにザルワーン方面からの援軍が来るという話もあり、その点では心配する必要もなさそうだった。
それに、シーゼルが戦場になる可能性は極めて低い。
シーゼルが攻撃を受けることなど、アバード軍による奪還作戦以外には考えられないが、その場合、王都バンドールから攻め込まれるか、長駆の末、センティアの部隊が攻め込んでくるかのふたつにひとつだ。王都バンドールの戦力には、シーゼルを出発した軍勢が対応する上、アバードがセンティアの戦力を動かすことは考えにくいのだという。センティアとシーゼルは離れている。ただでさえ遠い上、センティアはマルウェールから近く、シーゼルを奪還するほどの戦力を吐き出せば、マルウェールのガンディア軍から攻撃を受ける可能性があった。ガンディアのアバード侵攻が本格化したこともあり、アバードは、マルウェールの動向にも注意を払わなければならなかった。いや、アバードが注意しなければならないのは、マルウェールだけではない。
タウラル要塞を落としたシャルルム軍の動向にも意識を向けなければならない。タウラル要塞からセンティアまでは、シーゼルよりも近いのだ。センティアの戦力を吐き出せば、シャルルム軍に攻め込まれる可能性もあった。
ガンディアとシャルルムのことを考えれば考えるほど、アバードは軍勢を簡単には動かせないという状況にあり、そして、軍を動かせないということは、情勢をひっくり返すこともままならないということだった。
『アバードがこの状況を覆すには、王都に攻め込んでくるであろう我々ガンディアの軍勢を撃退し、勝利をもぎ取る以外にはありません。別の言い方をすれば、ガンディア軍さえ撃破することができれば、アバードは本来の領地を回復することも難しくはないでしょう。黒き矛を倒すほどの戦力があるということは、シャルルム軍など取るに足らない相手だということなのですから』
ナーレス=ラグナホルンの説明が耳に残っている。
アバードに残された手段が、それなのだ。じきに王都に押し寄せるであろうガンディア軍を騎士団とともに撃退し、勝利すること。それだけがアバードに残された唯一の生存の道であり、それ以外にはなかった。
『ほかに道があるとすれば、アバードが我々に降伏することです。降伏し、せめて属国に下る。そうすれば、アバードという国は残り、アバード王家も歴史を紡ぐことができましょう。もっとも、その場合、現国王には退位頂き、シーラ様に王位を継承していただくことになりますが』
ナーレスがそういったとき、シーラは苦い顔をしたものだが。
しかし、それこそがガンディア軍の目的だった。
現在、ガンディア軍の掲げる大義とは、アバード王女シーラ・レーウェ=アバードの窮状を救うというところにある。シーラ王女を救い、シーラ王女に王位を継承させることでアバードの政情を安定させるというのが、アバード侵攻の御旗だった。つまり、アバードを滅ぼし、ガンディアの領土にすることはできない。そんなことをすれば、世間の悪評を買うことになる。ガンディアはいま大事な時期だ。そんな時期に周辺諸国から非難を受けるような行動を取ることはできない。
このアバード侵攻ですら批判の的にされる可能性が高い。ガンディアが大国であり、圧倒的な軍事力を誇っているからなにもいわれないだけのことだ。だが、だからといって、その圧倒的軍事力を背景に傍若無人な振る舞いをしても構わないかというと、そうではない。
『ガンディアは大国となり、圧倒的な力を得ました。セツナ様もいて、《獅子の尾》を始め、武装召喚師が多数いる。通常戦力も数多にいて、我が国に対抗しうる国はそうあるものではありません。ですが、そのような圧倒的な力などまやかしに過ぎません。吹けば飛ぶようなものに過ぎないのです』
広大な国土を有し、圧倒的といっても過言ではないような戦力を持ったところで、それが絶対的なものだとは言い切れないのが戦国乱世なのだ。たとえば、ガンディアの近隣諸国すべてが敵に回り、同時に各方面から攻めこまれれば、それだけでガンディアは国土の大半を失うだろう。どれだけ戦力を有していたところで、全国土を守りきれるものではないのだ。
だから、周辺諸国とは友好関係を結んだままでいたい、というのがナーレスの考えだ。そのまま同盟を結び、紐帯を強くするのもいい。アバードのように機を見つけては攻めこむのもいい。が、とにかく、周辺国の多くを敵に回すようなことだけはしてはならない。
「風が吹けば飛ぶようなもの……か」
セツナは、馬上、ナーレスの言葉を反芻するようにつぶやいた。約五千人の将兵が長大な隊列をなす中に、彼はいる。歩兵、騎兵、馬車――数えきれないほどの人員が何列にも並んで、ゆっくりと移動している。シーゼルから王都バンドールへの道中。だれも急いではいない。急ぐ必要もない。目的地は定まっている上、敵が目的地から逃げることもありえない。たとえ王都からだれひとりいなくなったとしても、構いはしない。王都を制圧するだけのことだ。そして、王都を制圧することさえできれば、アバードを制したも同じだ。もちろん、シーラ姫救援軍の目的を達成するには、アバード制圧だけでは駄目なのだが。
「どうした?」
声をかけてきたのは、隣のシーラだ。彼女は、この軍勢の象徴ということもあって、遠目にもわかるよう派手で美々しい装束に鎧兜を身に着けていた。彼女の周囲には黒獣隊の面々がいて、さらにその前方にはシドニア傭兵団が隊伍を組んで移動している。ちなみに《獅子の尾》の面々は、セツナのすぐ後ろに並んでいる。
「いや、なんでもない。それより、だいじょうぶか?」
セツナは、馬を操ることに意識の大半を向けながら、シーラを見た。セツナはいま、自分の手で軍馬を操っていた。こちらの世界に召喚されて、約一年。ようやく、ひとりで馬に乗れるようになったのだ。日々の訓練の成果だ。念願といっていい。
これまでは、ファリアやミリュウが操る馬に乗せてもらうしかなかったが、これからは彼女たちの手を煩わさせることもない。もっとも、ミリュウは少しばかり残念そうな顔をしていたし、手綱捌きにはまだまだ不安があったが。
「ん……?」
「王都に攻め込むんだぞ」
「ああ、そのことか。何度もいっただろ」
シーラは、あきれたような顔をした。彼女がそういいたくなるのもわからなくはないくらい、セツナは彼女のことを心配していた。ついには彼女の不興を買うほどだ。だが、それでもセツナは彼女のことを気にせずにはいられなかった。そのことがミリュウの不満を募らせていることもわかっている。シーゼルについて以来、ファリアやミリュウ、レムたちと言葉をかわした記憶がほとんどなかった、ずっと、シーラにつきっきりだったからだ。
「もう、覚悟は決めたんだ」
シーラはそういったが、セツナには、彼女が無理をしているようにしか見えなかった。そのどこか虚ろな表情や意思の強さを感じられないまなざしも、彼女がなにもかもを諦めているが故のものではないのかと思えた。
「決めたんだよ」
シーラは、それ以上なにもいわなかった。
やがて、ガンディア軍が王都バンドールを臨む丘に辿り着いたのは、シーゼルを出発して二日後の二十五日の夕刻であった。
その日のうちにバンダールという名で知られる丘に本陣を置き、本陣を中心に陣を敷いた。本陣には当然シーラがおり、総大将であるセツナもいた。今回、軍師の役目を与えられたエイン=ラジャールと彼の部下たちもいた。エインが軍師を務めることになったのは、ナーレスが己の体調を考慮したからであり、彼はシーゼルに留まり、後続部隊との連携に務めるという話だった。ナーレスの様子はいよいよ思わしくなかったのだが、彼は軍がシーゼルを出発する際も見送りに現れ、セツナやエインに話しかけてきたものだった。
『セツナ様、エインはまだまだ若輩者ですが、御存知の通り、才能に溢れた人物です。彼が経験を積み重ねれば、必ずやわたしを超える軍師として成長するでしょう。ですから、彼のこと、大切にしてやってください』
『もちろんですよ』
セツナが力強く頷くと、ナーレスは、微笑んでいた。
やせ細った彼の姿は見ているだけで痛々しいというのに、彼の微笑みはどこまでも透き通っていて、セツナは胸に迫るものを感じた。彼とはもう逢えなくなるのだ。確信が、別れを惜しませた。ナーレスからはまだまだ学ぶべきことがある。まだまだ教わり足りない。いろいろなことを彼から教わりたかった。そんなことをいまさらのように想う自分が腹立たしくて、悲しかった。
しかし、別れを惜しむ時間さえ、許されなかった。
軍が動き出したとき、セツナはナーレスの手を握った。骨と皮だけのようになった手は、あまりにも弱々しく、少し力を入れただけで骨が折れるのではないかと心配になるほどだった。
『では、セツナ様、勝報、お待ちしております』
別れ際、ナーレスの発した言葉は、いまも耳に残っている。