第千九話 軍師とは(十)
二十二日。
シーゼルのアバード軍駐屯地がにわかに騒がしくなったのは、出撃準備が整えられ始めたからだった。主戦力は、当然、ガンディア軍である。ガンディア軍ログナー方面軍第四軍団、ザルワーン方面軍第一、第三、第七軍団の総勢約五千名が主な戦力であり、駐屯地に収まりきらないほどの兵員は、シーゼルの一部を占拠するに至っている。それでもシーゼルの市民から不平や不満の声が聞かれないのは、ガンディア軍の物々しさに逆らってもどうにもならないという諦めを覚えることもあるだろうが、ガンディア軍が掲げる大義に共感するものも少なくないからだった。
アバード王家によって窮地に追い込まれたシーラ・レーウェ=アバードの救援と、アバードの是正。
ガンディア軍の大義がアバードに侵攻するための欺瞞などではないことは、シーゼルのアバード軍駐屯地にシーラ姫が姿を表し、そのまま駐屯地に残ったことで明確なものとなった。シーラは、ガンディア軍の正義のために利用され、彼女の合流は、シーゼル市内に広く知らしめられた。
そして、その結果かどうかはわからないが、シーゼルに駐屯し、ガンディア軍と相争ったアバード軍獣戦団の複数の部隊が、ガンディア軍への協力を申し出てきていた。元よりシーゼル攻防戦で敗北を悟りガンディア軍に降ったものたちだ。ガンディア軍に協力するか、戦争が終わるまで捕虜として過ごす以外の道はなかった。
シーラがガンディア軍に合流し、御旗として掲げられたことは、彼らが捕虜の身から脱却する上でも重要な出来事だったのかもしれない。
甲獣隊、走獣隊、闘獣隊など、五隊約三百名がガンディア軍とともにシーラ姫を救うことを誓い、アバード軍駐屯地に整列した。
総大将がセツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドだということが発表されると、駐屯地はどよめき、そして沸き立った。特にセツナの実力をよく知るログナー方面軍からは拍手喝采といってもいいような反応があった。
何千人もの将兵の前に立つと、さすがのセツナも緊張を覚えずにはいられなかった。最前列には《獅子の尾》の面々が並び、ファリアとミリュウ辺りは、こちらを心配そうな表情で見ている。レムと黒獣隊の面々は、正規の軍人ではないため、正面ではなく脇に並んでいる。シドニア傭兵団の約五十人も、セツナ配下の部隊ということで黒獣隊の後ろに並んでいた。
セツナは、整列した何千の兵士たちの正面に用意された台座の上に立っていた。
「このたびの戦いは、シーラ姫を窮状からお救いさし上げるべく起こしたものだ。シーラ姫こそ、このアバードに必要不可欠なお方であることは、だれの目にも明らか。シーラ姫を害し、亡きものにしようとするアバードのやり方は大いに間違っているのだ。その間違いを正し、よりよく導くことこそ、我々の使命である」
セツナが台本通りに言葉を発すると、兵卒たちの間から反応があった。が、彼らがどのような反応をしたのかなど、セツナには気にしている余裕もなかった。
「そのためには、ベノアガルドの騎士団を追い散らす必要があることは、自明の理。ベノアガルドこそ、この混乱の原因であることは知っていよう」
ナーレスが考えたのであろう演説は、アバードの混乱の原因をベノアガルドに押し付けるものだった。アバードそのものを責め立てるのではなく、アバードに援軍を寄越したベノアガルドを糾弾することにしたのは、シーラやアバード人の心情に配慮したからなのかもしれない。あるいは、アバードを叩くよりも、ベノアガルドを叩くほうがやりやすかったからなのか。
「王都バンドールよりベノアガルドの騎士団を撃退し、アバードに真の平穏をもたらそうではないか!」
セツナが声を上げると、兵士たちの間からも歓声が上がった。
『おおーっ!』
『セツナ様―っ!』
『我々には黒き矛がついているぞーっ!』
様々な声が響く中、彼は後方から冷ややかな視線を感じた。シーラだろう。彼女にしてみれば、このような演説で沸き立つ軍勢など、不愉快以外のなにものでもないはずだ。
演説用の台座から降りると、軍装に身を包んだシーラと目が合った。醒めた目は、セツナに対してなにかいいたいことがあるかのようなまなざしであり、セツナは彼女の言葉を聞くため、歩み寄った。綺羅びやかな女性物の軍装を身に纏うシーラは、まさに戦場の姫君といった風であり、風になびく白髪が美しかった。
兵士たちの歓声がぴたりと止んだ。振り向くと、演説台にエイン=ラジャールが立っていた。バンドール攻略戦では、エインが軍師を務めることになっており、そのための挨拶ということだった。
「さすがはガンディアの英雄様だな。だれもがおまえの演説に耳を傾けていた」
「皮肉か? この状況下で演説以外のなにに耳を傾けるってんだ」
「皮肉でもなんでもねえよ」
シーラは、そっぽを向いた。声に棘があるように感じるのは、気のせいではあるまい。あのような演説を聞かされて、気分がいいはずもないのだ。アバードは、シーラの祖国だ。いまも彼女はこの国を愛し、この国のためになることをしたいと考えている。にも関わらず、彼女の存在がアバードという国の根幹を揺るがすことになってしまった。ガンディアの大義として、御旗として掲げられ、王都侵攻への理由にされてしまった。
シーラとしては、やっていられないだろう。
といって、この状況を止める手立ては、シーラにはない。たとえシーラが大声で叫んだところで、ガンディア軍が歩みを止めるはずもない。軍は動き出している。もはや、どうすることもできない。ならば見て見ぬふりをするか、というと、彼女はそうはしなかった。
すべてを受け入れる。
シーラは以前、そういったのだ。
「王都への侵攻……か」
エインの演説が続く中、シーラがため息を浮かべるようにつぶやいた。セツナはエインの演説よりも、シーラの言葉に意識を集中せざるを得なかった。シーラの一挙手一投足から目を離すことができない。常に彼女の状況を把握しておくことこそ、いまのセツナに課せられた使命といってよかった。セツナ以外のガンディア軍人には不可能であり、黒獣隊の隊士たちにも任せられないことだ。彼女たちはシーラの侍女だったのだ。黒獣隊の使命よりも、シーラの想いを優先するのは目に見えている。
「俺の目的も叶うわけだ」
「……ああ」
「はっ、笑えるぜ、まったく」
「シーラ」
「いや、すまない。ちょっと、気が立ってる」
シーラは頭を振った。彼女の精神状態が通常とは比べようもなく消耗しているのは、少し見ればわかることだ。憔悴しきった目は、この現実に耐え難い苦痛を感じていることの現れなのかもしれない。彼女はずっと、追い詰められている。ずっと、苦しみの中にいる。王都への帰還が拒まれてからずっとだ。一時期、休まる時期があったことが、余計に負担を強くしているのかもしれなかった。
シーラの心労を思うと、セツナも苦痛を感じずにはいられなかった。
「ああ……俺の方こそ、すまない。気が付かなくてさ」
「セツナが謝ることじゃねえよ。全部、俺のせいさ」
「なんでもひとりで抱え込むなよ」
「こんなこと、ほかのだれと共有しろってんだか」
シーラが悲しげに笑った。
エインの演説が終わると、駐屯地に整列していた兵士たちが一斉に動き出した。この後、バンドールへ向かうための最終調整が行われることになっている。部隊配置や戦術の確認など、参謀局第一作戦室と各軍団との間で行われることには総大将たるセツナが直接関わる必要はなかった。
シーラ姫救援軍ことガンディア軍がシーゼルを発つのは、明日、二十二日の午前ということになっている。それまでは時間があった。
そんなとき、ナーレスが話しかけてきた。
「先ほどの演説、上出来でしたよ」
「ナーレスさんの台本通りですよ」
「ええ、それで十分です」
ナーレスは、痩せ細った体を隠すためか、厚手の長衣を幾重にも着込んでいた。その上で頭巾を深くかぶり、顔もあまり見えないようにしている。他人の目を気にしているのは、軍師としての意識なのだろうが。
「ガンディアの英雄が総大将として演説されたことで、この軍は引き締まりました。戦意も高まっていることでしょう。これなら、バンドールを落とすことも難しくはありますまい」
「簡単とも思えませんが」
「騎士団……ですか」
ナーレスが目を細めた。
セツナは、ナーレスとエインにこれまでのこと報告している。シーゼルに潜入し、そこでエスクたちシドニア傭兵団と知り合ったこと。王都潜入を諦め、処刑会場となるセンティアの闘技場に潜入することに切り替えたこと。闘技場にいたリセルグ王が影武者であり、また、処刑そのものがシーラを誘き寄せるための方便であったこと。そして、ベノアガルドの騎士団と交戦し、彼らの実力の一端が伺い知れたこと。
中でも軍師たちの興味を引いたのは、騎士団の実力だった。シド・ザン=ルーファウス、ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコート、ロウファ・ザン=セイヴァス――この三名は、武装召喚師に匹敵するかそれ以上の力を持ち、セツナも黒き矛を持ちださなければやっていけないほどだった。そういう報告に対し、ナーレスとエインは顔を見合わせたものだ。ベノアガルドの人間が特異な能力を持っているらしいということは、レムの“死神”を素手で退けたアルベイル=ケルナーの例からも判明していたものの、今回の件によって、尋常ではない力を持っていることが確定したといっていい。
「ええ。少なくとも、センティアで対峙した三人の騎士は、並の武装召喚師よりは強いと断言できます」
「騎士団騎士が全員、その三名――十三騎士と同等の力を持っているのならば、確かに恐ろしいことですが、まず間違いなくそんなことはありえないでしょう。騎士団騎士が全員、同等の力量を持っていたのならば、セツナ様はともかく、シーラ様が無事にその闘技場から抜け出せたとは考えにくい」
「……確かに」
ナーレスの推測には一理あった。確かに、騎士団騎士ひとりひとりの実力が、シド・ザン=ルーファウスたちと同じであれば、あの闘技場から無傷で抜け出せるわけがなかったのだ。騎士団騎士と十三騎士の三名の力量は、大きく差がついていると考えるべきだろう。そして、騎士団幹部である十三騎士と騎士団の一般騎士の実力に差がついているのは、ある意味では当然なのかも知れない。一般兵と同じ力量の人間が幹部になどなれるはずもない。
「とはいえ、憂慮するべきなのは間違いありませんね。十三騎士ほどではなくとも、我が軍の一般兵より強いかもしれない」
「数ではこちらが上。こちらには武装召喚師が五名いて、死神使いもいる。それでも――」
「五名? 俺もいるぞ」
シーラが口を挟んでくることは、予想だにしないことで、セツナは少しばかり面食らった。それから彼女に目を向けて、シーラが冷ややかな目でこちらを見ていたことに気づく。
「……戦場にでるつもりか?」
「なにもせず、のうのうと戦勝報告を待ってろっていうのか?」
「そう願いたいのですが」
「嫌だね」
ナーレスの申し出をシーラは一蹴した。
「……シーラ」
「駄々をこねてるんじゃない。こうなったのは、俺の責任だ。俺の不用意がこの状況を生んでしまった。あんたのことをまったく考慮していなかったからな」
シーラが睨んだのは、ナーレスだ。軍師は、幽鬼のように痩せ細った顔をことさら涼しげにしてみせている。
「迂闊で愚かだったよ。ガンディアにはあんたがいたことをすっかり失念していたんだからな。軍師ナーレス=ラグナホルン。全部あんたの思い通りか。思い通り、事が運んでいるんだろう? 俺が戦場に立つって言い出すことも、あんたの思い通りなんじゃないのか?」
「……なにもかも思い通りとは、いきませんよ」
「どうだか」
シーラは、ナーレスの笑顔に対して、皮肉いっぱいの笑みを浮かべた。セツナには、彼女が精一杯の強がりをしている気がしてならず、痛々しくて堪らなかった。
「シーゼルをこうも簡単に落とせたのだって、王都の軍勢がこちらにこなかったからだろう? それも、タウラルがシャルルムに攻撃を受けていたからだそうじゃないか。シャルルムがタウラル要塞に侵攻することもわかっていたから、軍を起こしたんじゃないのかよ」
「勝てる算段がなければ、戦争するべきではない。ただ、それだけのことですよ」
ナーレスは、やはり涼しい顔で告げた。目だけが爛々と輝いている。
「道理だな。つまり、つぎの戦いも勝てる算段があるということだろ?」
「無論」
「だったら、俺が戦場に立っても、問題はないよな?」
「……ええ」
ナーレスは、諦めたようにいった。シーラが勝利を確信したかのような顔をする。
「ですが、これだけは覚えておいてください。姫様は、この軍の御旗であり、同時にアバード軍の標的だということ。姫様のお命が奪われれば、この軍は終わるということです」
「だったら、なおさら前線に出なきゃな」
シーラの皮肉は、止まらない。
「俺が死んで、全部終わりだ」
シーラがそう告げると、さすがのナーレスも鼻白んだようだが。
「シーラ様!」
彼女の名を叫んだのは、元侍女のひとりであり、現黒獣隊士ウェリス=クイードだった。彼女は長い髪を振り乱しながらシーラに詰め寄り、驚く彼女を尻目にさらに続ける。
「そんなこと、冗談でも言わないでください!」
「ウェリス……」
「そうだぜ」
セツナがそういって口を開くと、シーラがびくりとこちらを振り向いた。
「どのみち、俺がおまえを死なせはしないさ」
セツナは、シーラの目を見据えながら、決意を改めた。