第百話 獅子の尾を踏んではならない
「山賊……ねぇ」
立ち込める霧に混じり始めた血の臭いに鼻をひくつかせながら、カイン=ヴィーヴルは、息を吐いた。自分に与えられた連絡係という役目に不満があるわけではない。不満があるとすれば、それは、黒き矛が山賊の討伐如きに駆り出されたということにほかならない。
山賊程度、と思うのだ。
無論、放っておけというのではない。山野を荒らすに飽きたらず、人界にまで食指を伸ばしてきた豺狼を放置しておくなどもってのほかだ。さらにいえば、予てより勢力の膨張が懸念された山賊であり、さっさと討伐して欲しいと訴えられてもいた。
ガンディアは、まだ新生の産声を上げたばかりだ。国内の安定を図るという意味でも、民心を安んじるという意味でも、国法に背く賊徒は討伐しなければならなかった。
とはいえ、だ。
(鬼を使うほどでもあるまい)
狗の皮を被った鬼。
カインは彼のことをそう評していた。鬼というにはまだまだ幼いが、戦果だけを見れば鬼に相応しい。何千という敵兵を屠り、数多の皇魔を殺戮してきたのだ。世間的には、黒き矛のほうが通りがいいのだろうが。
悲鳴が、山間に響いた。
つぎに怒号が飛び交い、また悲鳴が飛ぶ、戦場へと近づいているのがわかる。
ガンディアの南西部に位置するクラバー山の中腹。ガンディア南端の都市クレブールに程近く、ルシオンとの国境を跨ぐように横たわる山だ。
そこに山賊が住み着くのもわからないではない。ルシオンはガンディアと同盟を結ぶ国であり、ガンディアの現在の王レオンガンドの妹君であるリノンクレアの嫁ぎ先でもあるのだ。国同士古くからの付き合いであり、その友好的な空気は国民の間にも広がっている。両国の商人が国境を行き来するなど、日常茶飯事といっていい。
クラバー山の陰に身を潜めた山賊どもは、そういう商人や旅人を襲い、金品や人命を奪うというのだが。
被害の報告が多くなったのは、ちょうどガンディアがログナーを制圧してからだった。それまで目立った被害もなければ、山賊に関する報告もなかったという。そこにガンディアを疲弊させようとするなんらかの意思が働いていると見るのは、必然だった。
ならば山賊を捕らえ、知っている限りの情報を吐き出させるのが道理だろう。でなければ、前に進むことなど出来はしない。
後方の安全なくして、前進はないのだ。
ガンディアは前進を続けなければならない。でなければ、いずれ目覚めるであろう巨獣の足に踏み潰されてしまう。
(彼らのように)
山野に曝された死体の群れに、彼は、喜悦すら覚えた。無謀にも反抗した山賊どものものだろう。真っ二つに斬り殺されたもの、頭を叩き潰されたもの、心臓を貫かれたもの――多様な殺され方を披露している。蔓延する血の臭いと紅い霧が、まるで夢の世界を演出しているかのようだ。
山に住む動物たちは息を潜めているのか、それとも、事態の凄まじさに尻尾を巻いて逃げ出したのか、聞こえるのは人間の断末魔だけだ。
じきに戦闘は終わるだろう。
戦場は、既に彼の視界に入っている。
カインは、似合いもしない黒い甲冑に身を包んだ鬼の乱舞を見つめながら、後ろの樹に背を委ねた。
鬼というには小柄に見えるそれは、身の丈以上もある禍々しい漆黒の矛を軽々と振り回している。鬼が矛を一閃させるたび、霧中の血の濃度が深く、重くなっていく。むせ返るような血の臭い。地獄というには生温いにせよ、平穏とは程遠い空間だ。
彼は、このままでは山賊を皆殺しにしかねなかった。だとすれば山賊の背後関係を調べることができなくなる。それは止なくてはならない。が、いつまでも彼の戦いを見ていたいという欲求もある。それならばいっそ、殲滅させてしまうのも面白いかもしれない。
山賊をけしかける程度の相手だ。ガンディアにとって取るに足らぬ連中かもしれない。無論、油断は禁物だし、できるならばその背後にどのような意志が動いているのかを知っておいたほうがいいのも事実だ。
が、鬼の舞踏を止めるなどという無粋なことはしたくはなかった。彼が鬼として成長していくには、幾多の死線をくぐり抜けていくしかない。闘争に闘争を重ね、血で血を拭い、死で死を飾るほどの戦禍を越えてこそ、彼は本当の鬼になれるはずだ。たとえ余興に過ぎないような戦闘であっても、見届けるだけに留めておくべきだろう。
やがて、鬼の舞が終わった。
深い霧と血煙が入り乱れる幻想的な風景の中、血にまみれた黒い甲冑が立ち尽くしている。黒き矛の柄を肩に担ぎ、呼吸でも整えているようだった。重量感のある鎧だ。戦場を飛び回る彼には不釣合いだが、彼のための鎧が完成するにはもう少し時間がかかるらしい。
それまでは有り合わせの武具を纏うしかない。もっとも、彼はそんなことに不満を抱くような人物ではない。犬のように座して待ち、与えられれば尻尾を振って喜ぶだけだ。
「皆殺しか?」
不意に声をかけると、鬼はびくりとした。遠目にもわかるくらい大袈裟な反応だったが、それも仕方のない事かもしれない。カインが気配を消していたのもそうだが、予定外の合流でもあった。山賊討伐の任務は、彼らに命じられたものだ。カインがここに現れることなど想像もできまい。
すぐにこちらを向く。目深に被った兜の中、彼の目は影に隠れてしまっている。
「ラ……カインか、びっくりした」
声は、どこにでもいるような少年のそれだった。 特有の卑屈さが滲んではいるが、健康的な声音ではある。それが彼、セツナ=カミヤという少年だった。鬼のような戦禍を巻き起こす人物とはとても思えない。
が、カインにはその姿こそが偽りに見えて他ならない。無論、戦場にある彼も、平時の彼も、同じセツナ=カミヤという人間なのだろうが、カインには戦場の鬼こそ、彼の本性だと思えるのだ。
いや、そう思い込みたいだけかもしれない。
「ひとり、生かしてる」
「上出来だ」
「命令は守るよ」
唾棄するようにいってきたのは、カインへの嫌悪感からだろう。カインは気にも留めないが。
そのとき、セツナの背後で死体の山が動いた。死体の間から飛び出してきたのは血塗れの男。手にした短剣の刃がきらめく。セツナは反応すらしない。彼は、こちらから視線を外そうともしなかった。カインも、動くつもりもない。
それで問題はなかったのだ。
白い突風が吹いたかと思うと、純白の翼が山賊の短剣を受け止めた。そして、一条の紫電が腕を貫き、男が悲鳴をあげて倒れこむ。
「隊長、油断しすぎ」
あきれたように告げたのは、セツナの隣に風のように現れた男だ。セツナを庇った純白の翼には傷ひとつ見当たらず、見ている間にも白いマントへと変化した。それ自体、強固な防具なのだろう。マントの下には簡素な鎧さえ身に付けていない。
ルウファ・ゼノン=バルガザールと、召喚武装シルフィードフェザー。
「ルウファのいう通りよ。作戦終了まで気を抜かないで」
厳しい口調は、頭上から降ってきた。生い茂る木々の上に身を潜めていたらしい声の主は、すぐに飛び降りてきた。軽装の女。急所を守るためだけの簡素な鎧は、彼女が射程兵器の使い手であることに起因している。
とはいえ、女が手にした、まるで翼を広げた怪鳥のような物体は、控えめにいっても弓には見えない。奇異な形状こそ召喚武装の特徴のひとつといってもいいが、中でも彼女のそれは群を抜いて奇妙な形をしていた。雷光を射出する弓オーロラストーム。
召喚者の名は、ファリア=ベルファリア。セツナの保護者とでもいうべき人物であるらしい。
「そうはいうけど、あとはこいつひとりだったんだぜ?」
ふたりの部下になじられて、セツナは不服そうな声を上げた。矛を旋回させ、切っ先を地でのたうつ男に突きつける。電撃の痛みに情けない悲鳴をあげていた男が、息を止めた。髭面の男だ。ろくに武装をしていないところを見ると、セツナたちの奇襲に対応することもできなかったようだ。
彼は、息を呑んで黒き矛の切っ先を見ていた。セツナ自身がカオスブリンガーと名づけた矛の穂先は、山賊どもの血を吸い、赤く濡れている。
「だからこそ、でしょ」
「そうそう、あと一息、というときこそ気を引き締めないと」
「そうだな。君が殺されては溜まったものではない。セツナ=カミヤ。いや、いまはセツナ・ゼノン=カミヤだったか」
カインがふたりに同意すると、セツナはがっくりと肩を落とした。矛の穂先が、山賊の股間すれすれのところに落ちる。山賊が悲鳴を発したが、だれもがそれを黙殺した。
「で、彼は?」
「隊長の知り合い?」
ファリアとルウファが、こちらに視線を投げてくる。そういえば、カインはふたりと直接の面識はなかった。ランカイン=ビューネルと名乗っていた時代から考えても、だ。そしてそれでよかったのだ。仮面を被っているとはいえ、声色までは誤魔化しきれない。
「名前くらいなら聞いたことはあると思う。彼はカイン=ヴィーヴル。軍属の武装召喚師だよ」
セツナが答えると、ファリアは眉を顰め、ルウファは怪訝な顔をした。ふたりとも、名前さえ聞いたことがなかったのかもしれないが、それも有り得る話だ。カインの存在は、ごく最近まで秘匿とされていた。登用に至る経緯を考えれば当然の話だ。彼は、ガンディアの街ひとつを焼き尽くし、住人の多くを殺してしまっている。
名を変えたのも、仮面を被っているのも、そのためだ。
カイン=ヴィーヴルことランカイン=ビューネルは、ガンディア国民にとって憎むべき大罪人であり、本来ならば極刑に処されるべき人間だった。が、彼は生かされた。王の奴隷として。
そして、軍属の武装召喚師というセツナの説明は間違っていない。 が、彼らと同じ王宮召喚師でもなければ、協会から雇用しているわけでもない武装召喚師の存在は、奇異なのだ。
武装召喚師の多くは《大陸召喚師協会》などという半ば形骸化した組織によって管理されており、その影響力は大陸全土にまで及ぶという。とはいえ、そこに強制力はなく、あくまで互助会としての側面が強い。設立当初の目的が武装召喚術の普及ということを考えれば妥当な話だろう。
かくして、武装召喚術は普及し、少国家群は激動の時代を迎えている。
「その武装召喚師殿が、我々になんの用事があるのですか?」
「もちろん、王命だよ。でなければ、君たちがこんな山奥で戦っているなんて知るはずもない」
「それはもちろんわかっています」
「では、本題に入ろう。君たち《獅子の尾》隊は当作戦の終了をもってクレブールに移動、明日クレブールに到着予定の要人の護衛任務についてもらいたい。山賊の生存者の移送は俺が行う」
告げて、カインは懐から封筒を取り出した。その中には王の署名入りの命令書が入っている。セツナに手渡すと、彼は封筒の中身を確かめもせずにファリアに渡した。隊長にはあるまじきことかもしれないが、それが《獅子の尾》隊のやり方ならば口を挟む道理もない。
「急な話ですね」
「王宮としても突然の話だったらしい。先方から連絡が来たのが君たちを派遣した直後だからな」
「それで、クレブール近郊の俺たちに白羽の矢が立った、と?」
「それだけ重要人物だということだ。《獅子の尾》隊――いや、黒き矛といえば、いまやガンディアを象徴する存在だ。君たちが護衛に付けば要人の心証も悪くはない」
クレブールから王都ガンディオンまでの街道は一本道のようなものだ。まっすぐ進めば、大きな問題が起きるようなこともないはずだった。
領内を安全に行き来できるようにするのは国の務めであり、そのために皇魔はもちろんのこと、山賊や盗賊の存在も許しはしない。たかが山賊如きの殲滅に黒き矛を派遣したのも、その意思表示のひとつだろうか。
ガンディアの度重なる勝利に貢献した黒き矛の名は、国の内外問わず轟き渡っている。そんなものを相手にしてまで盗賊や山賊を続けようとするものもいまい。いたとしても、ガンディア領内からは去っていくのではないか。
そういった期待が、今回の山賊殲滅任務に込められていても不思議ではない。バルサー要塞の奪還からログナー制圧に至るセツナの活躍は、ガンディアの臣民の心を奪うには十分過ぎた。
「ま、なんだっていいさ」
セツナが、矛を引いた。足元の地面に突き立てると、周囲の死体の山を一瞥する。霧はまだ深い。濃厚な血の臭いも、ここがまだ戦場であることを思いしらしめるかのようだ。その情景に彼はなにを思うのか。カインにはまったく想像がつかないし、どうでもいいことでもある。他人の感情など、推し量る必要もない。
「俺たちは命じられたことをこなすだけだろ?」
セツナは、ふたりの部下にいうと、答えも聞かずに歩き出した。ファリアが追従する。
「ええ、そうね」
「それが宮仕えの辛いところですか」
ため息を浮かべるルウファに、セツナが振り返って声を上げた。
「辛いなんていってないだろ」
「そうよ、辛いのならやめてもいいのよ?」
「ええーっ、なんで俺だけ。俺だって辛くないんですからね!」
獅子の尾隊の面々があっさりと戦場をあとにするのを見送りながら、カインは、彼らのこれからに胸躍らせる自分に気づいていた。彼らは過酷な戦場に駆り出されるに違いない。そのために彼らは軍に所属するのではなく、王直属となったのだ。王の意志ひとつで戦場を駆け回り、王の命ひとつで死地に赴く。そのうえで、死ぬことは許されない。彼ら――中でもセツナ――は代替が効かないのだ。そこが自分とは違うところといえば、違うところだろう。
「さて」
カインは、山賊の生き残りに目を向けた。髭面の男は、ただ呆然としている。仲間が全滅した事実と、命を取り留めた現実の狭間で混乱しているのかもしれない。こちらの視線に気づいてもいないのだ。みずからの運命にも気づいてはいまい。
男はこれから王都に移送され、取り調べを受けることになる。彼がなにを知っていようと、知っていまいと、ここで仲間と一緒に殺されていたほうがよかったと、心の底から思うような未来が待ち受けている。残酷な運命が待っている。が、それを乗り越えれば、カインと同じ道を歩めるかもしれない。
彼は、薄く笑った。
どちらにせよ、死んだ方がマシだ。