第千八話 軍師とは(九)
「シーラ姫、シーラ姫様ではありませぬか!」
迫力のある大声がシーゼル・アバード軍駐屯地に響き渡ったのは、翌十九日の午前中、セツナがシーラを連れ立って駐屯地内を歩いているときのことだった。見慣れぬ軍装の部隊が前方から近づいてきたと思うと、突如として立ち止まり、そう叫んできたのだ。
シーラがびくりと足を止めたので、セツナも足を止め、同時に警戒した。シーラはその立場上、その身に危険が及ぶ可能性があった。セツナがシーラの側を離れないのは、彼女の精神面を支えるためもあるが、護衛を兼ねてもいた。無論、シーラには侍女たちがついてはいるが、相手がベノアガルドの騎士だったりした場合、侍女たちでは対応できないだろう。
もっとも、ベノアガルドの騎士が突如として敵地に飛び込んでくるとは考えにくいことではあるが。
「そうだが……おまえたちは?」
シーラの態度を見る限り、彼女には見慣れた軍装なのかもしれなかった。アバード軍の兵隊なのだろう。よく見ると、アバードの国章が軍服の中に描かれていた。輝くふたつの星は間違いなくアバードのそれだ。
アバード軍の兵隊は、シーラの目の前で一斉にかしずいた。主君に対する臣民の態度であり、その厳粛極まる反応には、セツナも唖然とした。
「我らアバード軍獣戦団甲獣隊、シーラ姫様の窮状をお救いさし上げるべく、この軍に参加いたしますぞ!」
「なんだと?」
シーラが険しい表情をしたのは、彼女には受け入れがたい発言だったからかもしれない。兵隊の発言から、彼らがアバード軍の正規軍に所属する部隊だということがわかる。
獣戦団とは、アバード軍の一軍団なのだ。双牙将軍ザイード=ヘインを頂点とする軍団であり、クルセルク戦争に投入された牙獣戦団、爪獣戦団、翼獣戦団とは指揮系統を別にする軍団という話だった。それら三軍団は双角将軍ガラン=シドールの指揮系統だったらしい。双角将軍そのひとは、クルセルク戦争に参加しなかったそうだが。
そういうことからわかるように、双角将軍指揮下の三軍団はシーラ派、双牙将軍指揮下の獣戦団はセイル派、王宮派として色分けして認識されている。エンドウィッジの戦いを振り返る限り、その通りらしい。
その獣戦団の一部隊が、目の前でかしずいているのは、シーラの目にも不思議な光景だったに違いない。
「我々は、このシーゼルに駐屯していた軍の一部隊に過ぎませぬ。先の戦いでガンディア軍に敗れ、捕虜となった身であったのですが、姫様が来られたことを知り、姫様のお力になりたいと直訴したところ、軍師殿が認めてくださったのです」
「俺の力に……?」
「はっ! 我らシーゼル駐屯軍は、元よりシーラ派にございます故!」
兵士の一言に、シーラが一瞬、表情を引きつらせたのがセツナにはわかった。シーラ派という言葉が彼女の心に深い傷を刻みつけているのは、彼女のこれまでの言動からも明らかだった。シーラ派という派閥さえなければ、このような状況は生まれようがなかったのだ。シーラが国を追われることもなければ、シーラが売国奴の烙印を押されることもなかった。彼女は王女として、アバード王家の一員として、平穏と安らぎの中で人生を謳歌できただろう。
そういった日々を奪ったのは、シーラ派であり、シーラ派の暴走を止められなかったシーラ自身なのだ、
だから、彼女はシーラ派を責めることができない。だから、彼女は自分を責め立てる。だから、彼女はひとり悩み苦しみ、失意と絶望の中でのたうち回っている。そんな彼女を見ていることしかできないのは、ただただ辛く、苦しい。
「姫様ほどこの国のことを考え、この国のために身を粉にし、骨を砕いてこられた方はおりませぬ。我々はアバード軍の一兵卒に過ぎませぬが、それでも、姫様がいかにアバードを愛され、アバードの民草のために血を流してこられたのか、知らないわけがございませぬ」
兵士は、シーラを見上げながら、熱烈に語った。その兵士が語る言葉に、ほかの兵士たちが強く反応しているのがわかる。もらい泣きしているものまでいるようだった。シーラの前にかしずいているだれもが、シーラの境遇を我が事のように感じているのだろう。
シーラがアバード国民から慕われているのは、前々からわかっていたことだが、こうしてまざまざと見せつけられると、彼女がこれまでアバードのために成してきたことの大きさが実感として理解できる。
「そんな姫様の窮状を黙殺して、なにがアバード兵か! なにがアバード人か! 我々は、姫様のため、このアバードのために命の限り戦うつもりでございます!」
「……ああ。ありがとう」
シーラの声に抑揚がなかった。感情が篭っていないのだ。しかし、兵士は、いたく感激したようだった。
「ああ、我々のようなものにはあまりにもったいなきお言葉! 感謝されることではありませぬ。アバードの人間として、当然のことでございます!」
兵士の激烈な反応で、彼らがいかにシーラのことを見ていないのかがわかった。シーラ本人を見ているのではなく、シーラ姫という虚像を見ているのではないか。だから、シーラの心の篭っていない言葉にも感激し、猛烈な反応を示すのだ。
シーラは、そんな兵士の反応を見て、より冷ややかな口調でいった。
「……これだけは約束してくれ」
「はっ、なんでございましょう!」
「死ぬなよ」
それは、シーラの本心に違いなかった。
彼女は、これ以上、自分のためにだれかが死ぬことなど望んではいなかった。進んで彼女のために戦うといってきたものたちとはいえ、そのために死んでは、彼女としては後味が悪いにもほどがあるというものだ。そもそも、シーラはきっと、援軍など望んでもいないはずだ。
ガンディア軍の派兵すら、彼女の希望ではなかった。
シーラの望みは、母との対面であり、セリス王妃から話を聞くことだけなのだ。だが、もはやこうなった以上、シーラに逃げ場はない。ナーレスの用意した神輿に乗るしかないのだ。
「はっ! 姫様のご下命とあらば、必ず生き延び、戦後、報告に上がらせて頂きます!」
「ああ……」
「然らば、失礼致しまする!」
先頭のひとりが立ち上がると、ほかの兵士たちが一斉に立ち上がり、深々とお辞儀をした。それから九十度の方向転換を経て、シーラの目の前から移動する。百人余りの兵士たちは、脇目も振らず本部施設に向かって歩いていった。軍師に報告でもするのかもしれない。
甲獣隊の兵士たちが立ち去ってからしばらくして、シーラが口を開いた。吹き抜ける風にかき消されるほどにか弱い声だった。
「……なんだよ。なんで、こんなことになるんだよ」
「シーラ……」
セツナは、彼女の名を呼ぶことしかできなかった。彼女の心情を想えば、それ以上なにもいえなかったのだ。
「なんで、アバードの正規軍がこっちに参加してんだよ。こっちはガンディア軍だぞ。ガンディアに国を売り渡すのかよ」
シーラの嘆きは、ほかのだれにも聞かせられないものだった。セツナと侍女たちだからこそ聞き流すような言葉であり、シーラも、だからこそ吐き捨てたのだろうが。
そうするうちに、前方から、また兵隊が近づいてくるのが見えた。先ほどとは違う部隊のようだが、やはり、アバードの軍服を着込んだ兵隊は、シーラの目の前で立ち止まった。五十人ほどの部隊だった。
「シーラ王女殿下!」
兵隊は、シーラの眼前でかしずき、先ほどの甲獣隊と同じような文言でシーラの表情を曇らせた。
今朝は多少なりとも機嫌の良かったシーラだったが、そういうことが三度、四度と続くと、さすがに言葉数が減り、ついにはなにもいわなくなった。
やがて彼女が口を開いたのは、駐屯地内の建物に入ってからのことだった。
「わかってる」
シーラは、突然、そんな風に話し始めた。
「全部、俺が始めたことだ。俺が始めたから、こうなったんだ。俺が動かなきゃ、はじめなきゃ、こうはならなかった。少なくとも、これほどでたらめな状況にはならなかった。そうだろ?」
「……かもな」
「だったら全部受け入れて、見届けるしかない。この国がこの先どうなるのか、この目で見据え、見届ける。その中で、俺は俺の目的を果たすだけだ」
ガンディア軍は、シーゼルを落とした。シーゼルは王都バンドールの目と鼻の先だ。ガンディア軍のつぎの標的は、まず間違いなくバンドールだ。王都さえ手中に収めれば、アバード全土を手に入れるのも時間の問題だった。
無論、ガンディアの掲げた大義は、アバードの平定ではないし、アバード側がシーラの王位継承を認めれば、そのとき、ガンディアの正義は遂行されるのだが。
いずれにしても、ガンディア軍に王都に侵攻する意図があるのは、だれの目にも明らかだった。
それは、シーラの目的を叶えることにもなりうる。
シーラの目的は、セリス王妃との対面。
王都を落とせば、セリス王妃と言葉をかわす機会も得られるだろう。
「大将、なにしてたんですか」
エスク=ソーマの第一声は、剣呑極まりなかった。無精髭の生え始めた男の顔は、セツナを認識するなり険しくなり、言葉も荒くなった。
「俺たちのこと、すっかり忘れてたでしょ」
「んなわけないだろ」
適当に言葉を選びながら、室内を見回す。
そこは、エスクたちシドニア傭兵団の宿所として宛てがわれた施設の一室だった。広い部屋で、エスク、レミル=フォークレイ、ドーリン=ノーグの三人が所在なげに佇んでいるのが妙におかしかった。三人しかいないところを見ると、この部屋は幹部のために用意された部屋であり、ほかの傭兵たちは別室に待機しているようだった。
「だったら、なんで一晩中放置してたんですかねえ?」
「こっちにはこっちの事情があるんだよ」
「……へえ。事情、ねえ」
「俺はこう見えてもガンディアの領伯で、王立親衛隊長だからな。いろいろあるのさ」
とはいったものの、領伯や隊長の仕事に追われたからエスクたちの顔を見に来ることができなかったわけではない。シーラの側を離れるのが怖かったからだ。彼女が自暴自棄になってみずから命を手放すという可能性がある以上、目を離すことはできない。侍女たちがいるからといって安心できないのが実情だった。
先ほどの言葉を聞く限りでは、彼女が自害するようなことはなさそうに思えるのだが。
「それで、おふたり揃って……えーと、いや、大人数でなんの用なんです?」
エスクが言い直したのは、セツナとシーラ以外に黒獣隊の面々がついてきていたからだ。彼女たちは、黒獣隊の隊服を纏っており、その黒い装束は近寄りがたい空気を醸し出している。シーラは、違う。彼女は、シーラ・レーウェ=アバードとして振る舞うため、美々しく着飾っていた。
セツナは、そんなエスクの様子に呆れがちにいった。
「放置したことを怒っておいてそれはないだろ」
「いやまあそうなんですけど、用がなければ来ないでしょ?」
「まあ、な」
認める。
それから言葉を探した。
「シドニア傭兵団は今後、どうするつもりだ?」
「どうするもこうするも、俺たちに選択肢なんてあるんですか?」
「ある」
「へえ、そいつは意外な返答だ」
エスクが、いつもの皮肉げな表情を浮かべた。セツナはそんな彼を見据えながら、口を開く。
「このまま俺に従うか、ガンディアと契約を交わすか、それとも、ここを出て行くか。出て行くにしても、内情を知られるわけにはいかないからな。状況が落ち着くまではここにいてもらうことになりそうだが」
「まあ、そうなりますわな」
「どうする?」
「ひとつしかないっしょー」
彼は、身を乗り出して、いってきた。
「大将の下で働かせてくださいな。……意外ですか?」
「ああ、意外だな。俺はてっきり、ここを出て行くかと思ったんだが」
「俺たちゃ傭兵ですよ。戦場で金を稼いでなんぼです。出て行って、どうなるっていうんです。アバード政府に敵対した以上、アバードに雇ってもらうという線はなくなりましたし、かといって他国に流れるにも資金がない。そもそも、大将からもらうべきものをもらっていないのに、ここを出るなんていう選択肢はありませんぜ」
「……そりゃそうか。だが、だったらガンディアと正式に契約を交わしたほうがいいんじゃないか?」
「それも考えたんですがね。それは、今後の働きを見てもらってからにしようか、と」
「なるほどな……活躍して契約金を引き上げる算段か」
セツナがにやりとすると、エスクが目を細めた。
「そんなところっす」
「わかった。軍師殿には俺から話しておこう。っていっても、この軍の総大将は俺だから、話を通す必要もないんだがな」
「総大将……?」
「セツナ様が?」
「なんと……」
面食らったような三人の反応は、意外なものだったが、セツナは気にせず続けた。
「そんなわけだ。おまえたちの働きには期待している」
「も、もちろんですよ、大将!」
「戦いに向けて必要なものがあれば係りの者にいってくれ。俺から話を通しておくから、大体のものは揃えられるはずだ」
「は、はい! すぐにでも!」
「焦らなくていい。なにもすぐに戦いが始まるわけじゃないんだからな」
そういって、セツナはシーラたちとともに部屋を後にした。室内にいる間、シーラは一度も口を開かなかったが、だからどう、ということはない。
彼女が口を開いたのは、シドニア傭兵団の宿所から抜けだしてからのことだ。
「あいつら、信用できるのか?」
「実力は確かだ。それはシーラだって知ってるだろ?」
「ああ……」
「懸念もあるが……戦いになる以上、戦力は少しでも多いほうがいい。それにシドニア傭兵団の説得は、軍師殿からのお願いでもあったしな」
今朝、ナーレスの元に挨拶に出向いたとき、彼から直接依頼されたのだ。シドニア傭兵団と契約を結ぶ手助けをしてくれないか、というのがナーレスの依頼だったのだが、セツナの配下に入るのなら同じことだろう。
「ナーレスの願い……か」
「あのひとの考えは、俺にはわからないが、まず間違いないからな」
「……ガンディアにとって最良の選択なんだろうさ」
シーラの皮肉めいた一言には、返す言葉もなかった。
実際、その通りだ。
ナーレスは、ガンディアのことを第一に考えている。当然のことだ。自国のことより他国のことを優先する国がどこにあるのか。他国ばかり気にして、自国を疎かにするなどあってはならないし、自国を犠牲にして他国を救うなど、国としてありうることではない。自国のためならば他国をも犠牲にするのが、この世の倣いなのだ。
戦国乱世の常といっていい。
「しかし、セツナがいるんだ。これ以上の戦力、必要とは思わないがな」
シーラはそういってきたが、セツナは必ずしもそうは思わなかった。無論、自分の力に自信がないわけではない。黒き矛とセツナが力を合わせれば、敵わない相手などいないと想っている。あの圧倒的な力を見せつけたドラゴンを一瞬で消し飛ばしたのだ。それだけの力を使えるようになった。倒せない相手はいないはずだ。
だが、それでも、気になることはあった。
「俺だって無敵じゃない。消耗もするし、死ぬことだってあり得る。特に向こうには騎士団がいるんだ」
「……そうだったな」
シーラが肯定的にうなずいたのは、彼女もまた、ベノアガルドの騎士団の実力を垣間見たからだ。なんでも、危うくベインに殺されるところだったらしい。その話を聞いたときは、セツナは冷や汗をかいたものだった。
「騎士団って、ベノアガルドの騎士団ですよね?」
「ああ」
「その騎士団って、セツナ様が警戒なされるほどの力量なのでしょうか?」
「そうだ」
セツナは、元侍女のひとりミーシャ=カーレルの問いに静かにうなずいた。脳裏に過るのは、センティア闘技場で対峙した三人の騎士のことだ。シド・ザン=ルーファウス、ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコート、ロウファ・ザン=セイヴァス。彼らは、一様に特異な力を持っていた。召喚武装の能力ではないことは、ベインのなにも装備していない拳が光を放ったことからもわかる。強靭な肉体と神秘の力から繰り出される攻撃は強力無比であり、黒仮面では対応するのがやっとだった。黒き矛を召喚すれば、なんとでもなりそうな気配はあったが、あの場では騎士たちを殺すことはできなかった。
あの場で殺すべきだったのか、どうか。
ここのところ、そればかりを考えている。