第千七話 軍師とは(八)
「二十一日か」
レオンガンドが深い溜息とともに言葉を吐き出したのは、夜中のことだった。
レオンガンドが通された部屋は、セイラーン城二階に用意された賓客用の部屋であり、そこには光球な調度品の数々が設置されており、壁にかけられた絵画や装飾の施された魔晶灯など、さまざまなものが高級感を演出していた。しかし、そういった高級感も、この場内に立ち込める重く悲しい空気の前ではどこか寒々しいものがある。
夜だから寒いということもないだろうが、
「そのころには、アバードも落ち着いているだろうか」
レオンガンドの何気ない一言にジルヴェールはぎょっとして、周囲を見回した。室内には、レオンガンドとその側近しかいない。つまり、レオンガンド、ジルヴェール、エリウス、ゼフィルの四人だけである、《獅子の牙》の隊長や隊士たち、ガンディア方面軍第三軍団長以下は別室にて待機しており、レオンガンドからの別命があるまでは動かないだろう。
問題は、そこではない。
ここはルシオンの王都セイラーンであり、その中枢たるセイラーン城の中なのだ。どこにルシオンの目があり、耳があるのかわかったものではない。ハルベルクが義兄として尊敬して止まないレオンガンドを監視するとは思い難いが、だからといって油断していいはずもない。
「心配することはないぞ。少なくともこの部屋は、監視下に置かれている様子はない」
「そう……ですか」
「だが、そうやって常に状況の把握を怠らないところは、さすがはジルヴェールといったところかな」
「恐縮です」
ジルヴェールは背中に冷たいものを感じて、表情を引き締め直した。
しばらくして、エリウスが口を開いた。
「アバードですが、本当にナーレス殿に任せてよかったのでしょうか?」
ログナー王家の出身であり、一時期ログナーの王として君臨した彼は、レオンガンドより年下ということもあって、レオンガンドとはどこか兄弟のような間柄を築きつつあるようだった。ログナーがガンディアに平定されて一年近くになる。その間、エリウスは、ログナーを滅ぼされたことに対する恨み言などを発することもなければ、ガンディア王家やレオンガンドへの忠誠のみを体現し続けている。ゆえにレオンガンドは彼を側に置き、重用しているのかもしれない。
「ああ。ナーレスに任せておけば間違いない。彼ならば、ガンディアにとって最良の結果を導いてくれるだろう。ベレルがそうだった」
「ベレル……」
「アバードは同盟国だがな……なにも向こうの言い分だけを聞く必要もない」
アバードの言い分とは、ガンディアが匿っていたシーラ姫の身柄を引き渡せ、ということだ。アバードが六月二日に発表した声明が王都ガンディオンに届いたのは、五日後の七日のことであった。王宮が大騒ぎになったのは、シーラ姫が生きており、ガンディアが匿っていたということが白日の下に晒されたからであり、また、セツナ伯がシーラ姫とともにアバード領内で事件を起こしたということが判明したからだ。
しかし、レオンガンドが取り乱すようなことはなかった。彼は、アバードへの対応はナーレス=ラグナホルンに任せているというだけだった。レオンガンドは、シーラが生きており、セツナ伯の元で匿われていたということは知っていたらしい。そのことはさすがにジルヴェールにも、ほかの側近たちにも知らされなかったようで、側近との情報共有を大切にしている彼も隠すべきは隠すということがわかった。
とはいえ、本物のシーラが生存しているということは絶対に漏らしてはならない情報であり、レオンガンドや軍師たちが隠し通したということもわからないではなかったし、そのことでジルヴェールがレオンガンドたちに不快感を覚えるわけもなかった。それ以外の大抵の情報はジルヴェールにも教えてくれているのだ。たとえば、ジルヴェールの実の父であるジゼルコートを警戒しており、ジルヴェールがその手先ではないかと疑っているということさえ、臆面もなく告げてきていた。
「シーラ姫のことは、アバードの問題だ。それに関わるということは内政干渉になるが、こうなってしまっては仕方がない。シーラ姫が我が国を、セツナを頼ってこられたのだ。頼られた以上、それを無下にすることなどできまい。アバードの言い分では、シーラ姫に大義はないが、困窮し、助けを求めてきたシーラ姫を見捨てれば、満天下にガンディアの心意気を示すことになる。ガンディアは弱者を見捨てる国だということをな」
レオンガンドは、そういって目を細めた。
「まあ、セツナはそこまで深く考えてシーラ姫を匿ったわけではないだろうが、龍府にはナーレスがいて、彼がセツナとシーラ姫のアバード行きを黙認したのだ。ナーレスは、こうなることすら予期していたのではないかな」
「こうなることまで……」
「軍師とは、ナーレス=ラグナホルンとは、そういう男だ」
レオンガンドの自信に満ちた表情や言葉は、ナーレスへの信頼からくるものだということがわかる。ジルヴェールが軽い嫉妬を覚えたのは、彼が王宮に務めるようになってからというもの、レオンガンドに敬服し、レオンガンドの片腕になりたいと想うようになっていたからだろう。ジルヴェールの望む立ち位置にいるのが、ナーレスだ。ナーレスのように全幅の信頼を置かれる人間になるにはどうすればいいのか。ジルヴェールの頭には、そればかりがある。
「だからこそ、失うのが怖い」
「失う……」
反芻するようにつぶやくと、レオンガンドはしばし沈黙した。言葉を探すように視線を彷徨わせ、それから小さく嘆息した。そんな反応を示したのは、言葉にするのが恐ろしかったからかもしれない。言葉にするということは、現実を認識するということにほかならないからだ。
「……彼の命数が尽きるのも時間の問題なのだ」
レオンガンドの一言によって、元々静けさの中にあった室内は、より重い静寂に包まれた。
ジルヴェールの記憶の中のナーレス=ラグナホルンは、六年以上前の彼だ。策のため、レオンガンドと喧嘩別れする前の彼の姿が、ジルヴェールの脳裏に浮かんだ。ジルヴェールやレオンガンドより随分年上の彼は、一見すると優男で、目元の涼やかな人物だった。シウスクラウドに才を見出された彼は、次第に頭角を現し、六年前の当時では既にガンディアの軍師として名を馳せていた。もっとも、当時は外征ではなく、国土防衛にのみ、彼の才能は発揮されたのだが、その戦いのひとつひとつが凄まじいとさえいえるものだったため、彼の評価は高まっていった。ザルワーンがナーレスを欲しがったのも、そういった評価の高まりが国内に留まらず、国外にまで広まっていったからに他ならない。
ナーレスがザルワーンに仕官したのが、ザルワーンを内部から破壊するため、その工作のためだったということがわかったのは、ザルワーン戦争後のことであり、それまでジルヴェールは、ナーレスは本当にレオンガンドを見限り、ガンディアを見捨てたものだとばかり思っていた。ナーレスほどの人物が見捨てるような王子になどついてはいけない――ジルヴェールがレオンガンドの元を辞し、ケルンノールに籠もった理由のひとつだった。
ナーレスのことを考えてしまうのは、彼の言動がジルヴェールの人生を変えてしまったからだろう。
ナーレスさえレオンガンドの元を離れなければ、ジルヴェールもまた、レオンガンドの側に居続けるという選択をしたに違いなかった。レオンガンドの側に居続け、彼のために身を砕き続けたはずだ。その結果、レオンガンドの信を得られたのかはわからないが、少なくともいまとは違う立ち位置にいたことは疑いようがない。
とはいえ、ナーレスがザルワーンの弱体工作をしていなければ、ガンディアはザルワーンとの戦いに勝てなかったかもしれず、その場合、ジルヴェールはレオンガンドの側近であったとしても、いま、この世にはいなかったかもしれないのだが。
(軍師……か)
到底、自分にはなれぬものだ。
ジルヴェールは、レオンガンドの遠いまなざしを見遣りながら、実感としてそう思った。そして、遠いアバードの地に想いを馳せた。アバードが現在どのような状況にあるのかは、ルシオンにいるジルヴェールたちには想像することしかできなかった。遠い。情報の伝達には数日あまりの時間がかかる。だから、レオンガンドはアバードに関する全権をナーレスに託したのだ。王都から命令を下していては、一々時間がかかりすぎる。なんらかの機を逃す可能性も高い。それならばいっそのこと、軍師にすべてを任せてしまえばいい。
レオンガンドの考えは危なっかしいものの、合理的ではあった。
夜が深まっていく。
闇の帳が空を覆い、星々が闇を飾り立てていく。月の膨大な光だけが異様なほどに明るく、シーゼルの町並みを煌々と照らし出していた。
六月十八日午後八時。
初夏の夜風は、妙な暖かさでもって彼の骨ばった頬を撫で、そのまま通り過ぎていった。
(夜か)
彼は、ひとりだった。シーゼルのアバード軍駐屯地本部施設の部屋に、たったひとりで立っている。立つこともやっとだった。やっとの思いで、窓辺まで歩いてくることができた。エインには無理をするなといわれ、参謀局の面々には寝台に寝ていろといわれたが、窓の外の景色を見ることが無理なことだといわれるわけもあるまい。彼は多少楽観的な気分で、窓の外に目を向けていた。
日は完全に沈んだ。アバード軍駐屯地の各所からは魔晶灯の光が漏れており、まだだれも眠っていないことがわかる。夜はこれからだ、とでもいわんばかりの光であり、実際にそうなのだろうことは想像に硬くない。もちろん、軍人に夜更かしは禁物ではあるが、すぐさま戦闘になるわけでもない。そう目くじらを立てるものでもなかった。
(夜……)
窓枠を掴む自分の手を、見下ろす。骨と皮だけになったような指が、窓枠を掴み、体を安定させている。なにかに掴まっていなければ立っていられないほど、体力がない。骨と皮だけということは、肉がないのだ。筋肉が、ここ十日あまりで急激に痩せ細ってしまった。
ザルワーンで盛られた毒が、いまになって猛威を振るい始めている。
メリルを龍府に置いてきて良かった、と、彼は心底思った。こんな姿を愛する妻に見せたくはなかった。メリルはナーレスのもっとひどい姿を見ているのだが、そのときのナーレスは心神耗弱状態といってもよく、見られてもなにも思わなかった。いまは、違う。肉体こそ急激に衰え、軍師ナーレスの姿など見る影もないが、精神状態はいままでにないくらいに高まっている。充溢しているといっていい。
(いまが我が人生の夜)
生命の誕生とともに昇った太陽が、もはや沈み、夜の終わりを待つのみとなっている。
(夜は明けるものだ)
この夜が一月も持たないのは、わかりきっている。
ナーレスがアバードへの派兵を急いだのは、それもあった。アバードと交渉して時間を稼ぐということはできない相談だったのだ。
(この夜が続く間に)
自分の命が尽きるならば、せめて、あとひとつ、ガンディアのためにできることを成し遂げたかった。せめて、この生命をガンディアのために費やしたかった。
たとえこのアバードの地で命が尽き果てようとも、後悔はない。
後継者がいる。しかも、ふたりもだ。
それで十分だと、彼は想っている。
(あとのことは、彼らに任せよう)
その結果、ガンディアが道を間違ったとすれば、そのときはナーレスの見る目がなかったというだけのことだ。
それだけのことなのだ。