第千一話 軍師とは(二)
五月二十七日。
二十二日の新式装備披露の演習からその日まで、ファリアたちの日常に大きな変化はなかった。
相変わらず龍府は不穏な空気に包まれていたものの、それはファリアが敏感になっているから感じられるものであったらしく、龍府在住の一般のひとびとはごく普通の生活を謳歌していた。観光地は賑わい、メレドやイシカからの観光客が五龍塔を巡ったりしているという話がファリアの耳に入ってくらいには、龍府は平穏だったのだ。
物々しい空気は、ファリアが普段、龍府の中心たる天輪宮に起居しているからであり、参謀局の面々と顔を合わせることが多いからにほかならない。
参謀局長ナーレス=ラグナホルンに参謀局第一作戦室長エイン=ラジャール、彼の部下であるマリノ=アクア、シーナ=サンダーラ、セリカ=ゲイン、ほか十数人の参謀局員たち。彼らは、天輪宮の一角を参謀局の出張所として利用し、日々、なにかを企んでいるかのように会議を開いたりしていた。それだけならばいつものことだと思えたのだろうが、その出張所にはログナー方面軍第四軍団長ドルカ=フォームや副長のニナ=セントール、ザルワーン方面軍の大軍団長ユーラ=リバイエンに第一軍団長ミルディ=ハボックなどが出入りすることもあり、参謀局と軍部がなんらかの作戦のすり合わせを行っているように思えてならなかった。
ガンディアのためになにかを企むのが軍師の仕事であり、軍師が局長を務める参謀局の役割なのだ。その参謀局の出張所が騒がしいとなれば、なにかしら画策していると考えるのが普通だろう。だからといって、《獅子の尾》の隊長補佐に過ぎないファリアには、そのことについて参謀局長や暖房巨躯大一作戦室長から話を聞き出すといったことができるはずもなかった。
妙な物々しさを天輪宮の一角から感じながら、日々を過ごすしかなかったのだ。
そんなある日――つまり二十七日、異変があったのは、レムのことだ。
彼女が再び、体調不良を訴えたのだ。
以前、突然レムが見舞われたのと同じ症状であり、彼女は、その体調不良について不快感はなく、むしろ心地よいとさえ表現していた。しかし、熱に浮かされたようなレムの様子は、とても心地よさそうには見えなかった。マリアが診察したところでなにもわからず、名軍医もお手上げということから、彼女特有の体調の変化なのかもしれないという結論に至る。
彼女――レム=マーロウは、ただの人間ではない。そのことは、《獅子の尾》のだれもが知っている。レムの診察をしたマリアは、彼女が通常人とほぼ変わらないながらも、なにもかもが通常人とは異なるという診断結果を下した。なにもかもが同じようなのに、違う。それがレムなのだ。話によれば、彼女は二度死んでいるという。二度死に、二度、仮初の生を与えられている。一度目は、クレイグ・ゼム=ミドナスによって。二度目は、セツナによって。だから彼女は現在、セツナに忠誠をちかっているといっていい。
そんな彼女の体調不良だ。セツナとなんらかの関係があるのではないか、というのがレム自身の推測であり、彼女がそんなことをいったものだから、ファリアたちも心配になった。レムは、セツナと命を共有している。といっても、一方的に供給されているだけといっていいらしく、セツナが死ねばレムも死ぬが、レムが死んだところでセツナが死ぬようなことはないらしい。そのうえ、セツナが生きている限り、レムが死ぬことはない。
つまり、彼女が生きている限り、セツナは生きているということであり、毎朝彼女の無事な姿を目の当たりにしてほっとするのが、セツナが不在の間のファリアたちの日課といっても過言ではなかった。そんな彼女が体調の不良を訴え、それがセツナの状況と関係がありそうだとなれば、ファリアたちも不安にならざるをえない。
セツナが追い詰められているから、レムの体調に悪影響を及ぼしているのではないか。
そんな不安に苛まれたのは、ナーレスとエインがこんなことをいってきたからだ。
「今日二十七日が、ラーンハイル伯とご家族の公開処刑が執行される日です」
「我々が手にした情報によれば、センティアの闘技場で行われる予定らしく、セツナ様とシーラさんがそれまでに公開処刑を止めることができていなければ、おそらく、セツナ様たちは現在、センティアに潜り込んでいることでしょう」
「センティアに潜り込んで、どうするんです?」
ファリアが尋ねると、ナーレスは透明な笑みを湛えたまま、いってきたものだ。
「事前に止められなかったとなれば、強硬手段しかないでしょう?」
「それはそうですけど……」
「まあ、セツナ様が黒き矛を用いれば一瞬で解決するでしょうが、そんなことをすれば、セツナ様の正体が露見すること間違いありません」
「セツナがそこまで迂闊なことをするとは、考えにくい……」
「ええ。ですから、窮地に追い込まれていたとしても、不思議ではない」
「セツナ様が追いつめられるところなんて、考えられないし、考えたくもないんですけどね」
そういって、エインがにこやかに微笑んだことをファリアは覚えている。レムをちらりと見ると、彼女は部屋の片隅でぼんやりとしていた。やはり、不調なのだ。セツナが追い詰められているから不調なのか、それとも別の理由なのか。どちらにせよ、ファリアは不安を抱かずにはいられなかった。
が、そんな不安は、翌日には消え失せている。
レムがけろっとした様子でセツナの部屋の掃除をしていたからだ。
レムによれば、気がつけば体調不良は消えて失せ、いつも通りの自分に戻れていたということであり、ファリアたちはほっとするとともに、彼女が自分たちをからかうためにそんなことをしているのではないか、と思わないではなかった。レムには、そういうところがある。
日々は、流れる。
龍府は、平穏そのものだった。
ザルワーン方面軍第一軍団、ログナー方面軍第四軍団に加え、ザルワーン方面軍第三軍団、第七軍団が龍府に集ったことを除けば、大きな変化はなかった。物々しさは、ついに龍府市民の間にも波及し始めていたが、表向き、物騒な空気に包まれるようなことはなかった。
風の噂では、マルウェールでも軍備が整えられはじめているという。マルウェールにはスルークの第四軍団、ナグラシアの第五軍団などが招集され、龍府同様、新式装備の搬入が行われたらしい。
まるで同盟国アバードとの間で一戦交えるかのような様相に、ザルワーン北部が色めき立ち始めていた。
不穏で物騒な空気感が天輪宮にまで満ち始め、天輪宮の使用人たちまで緊張感に包まれようとしていた。
そして、そのころになるとファリアたちも、参謀局第一作戦室出張所に出入りするようになっていた。ファリアとルウファばかりが呼ばれるのは、《獅子の尾》の隊長補佐と副長だからに過ぎない。とはいえ、ミリュウはエリナの授業に忙しかったし、レムはそもそもセツナの従者であって、ガンディア軍そのものとは関わりがないため、それでよかったのだが。
ナーレスにいわく、最悪の事態を考えてのことだ、という。
最悪の事態。
つまり、セツナとシーラのアバード潜入が露顕し、アバードがガンディアを非難するだけに留まらず、武力に訴えてきた場合のことだ。
セツナとシーラの潜入など、同盟国への裏切り行為にほかならない。そんなことが露見すればただでは済まないのは、ナーレスだって最初からわかっている。とはいえ、ファリアにはその程度のことで両国の同盟関係や、友好関係が完全に崩れ去るとは想像してもいなかった。あって、アバード政府によるガンディアへの糾弾や、シーラ姫を匿っていたことへの説明の要求くらいではないか。軍備を整える必要性に迫られるとは、とても考えられず、ナーレスの視界がどのようなものを見ているのか、ファリアには理解しがたかった。
もっとも、状況を悪化させ、最悪の事態を作り上げるのがナーレス本人だとわかっていれば、彼が軍備を整えることに熱心だったのもわからないではないのだが。
六月を迎え、アバードの内情に大きな変化が見られないことから、セツナたちがセンティアでの公開処刑を止められなかったのではないか、という推測が参謀局出張所内で立てられ始めていた。
シーラの目的は、公開処刑を止めるため、アバードの国王であり彼女の父親であるリセルグに直訴することにある。センティアでの公開処刑の執行を食い止められなかったのは、これまでの情報でわかっている。リセルグ王がセンティアに下向したという情報からそのことは明らかだ。故にシーラは最終手段的に闘技場に乗り込んだのではないか、というのが参謀局の考えであり、それにはファリアも同意するほかなかった。執行日当日まで止められなかったのだ。あとは処刑会場に乗り込むほかない。乗り込み、リセルグ王に直訴するか、公開処刑そのものを台無しにするか。いずれにせよ、大問題になることは間違いなかった。
そして、六月五日。
龍府にアバード政府の声明が飛び込んできたのが、その日の朝方だった。
龍府全体を震撼させることになるアバード政府の声明文とは、センティアで行われる予定だったラーンハイル・ラーズ=タウラルとその一族郎党の公開処刑が、ガンディアのセツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルド率いる集団の襲撃によって台無しにされたということであった。そして、セツナ率いる集団の中にはシーラ・レーウェ=アバードの姿があり、彼女がガンディアに魂を売ったということにも言及していた。
王都で処刑したはずのシーラがなぜ、ガンディアの領伯とともにセンティアの闘技場に現れたのか。そのことについても、アバード政府ははっきりと説明している。かつて国家反逆者として処刑したシーラは、真っ赤な偽物だった。そのことはアバード政府も認識していたが、本物を処刑したとして公表したのは、本物のシーラがこれ以上、無用の混乱を起こすことはないだろうと見ていたからだ、という。シーラ派はエンドウィッジの戦いで壊滅に近い状態に陥り、シーラが行動を起こすことさえできないだろう、と。
だから本物のシーラを生かした。
それこそ、アバード王家の慈悲である。
であるにも関わらず、ガンディアに逃れたシーラは、ガンディアの領伯セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドとともにアバード領土を襲撃したのだ。これは売国行為というほかない。シーラはもはやアバード王家の人間としての誇りを失った売国奴であり、悪である――。
と、アバードの声明文は断言している。
それだけでも結構衝撃的だったが、アバード政府は、セツナの関与とガンディア政府の干渉に言及し、糾弾した。内政干渉などという生易しいものではなく、同盟国への裏切り行為だと非難した。シーラを匿っていただけならばまだしも、シーラの策謀に乗り、アバードに混乱をもたらそうとするなど、言語道断だと言い放った。
そして、ガンディアがアバードとの関係を修復したいのならば、シーラの身柄を引き渡すべきである、という言葉で締められていた。
アバード政府の声明に対し、ガンディアがどう応じるのか、ファリアたちにはわかりようがなかった。王宮の発表を待つほかない。
と、思われたのだが。