第九十九話 動き出す
時代が動き出している。
凍りついていた時が溶け出し、軋み、音を立てている。
ガンディアがログナーを飲みこみ、少国家群の情勢に変化が起きた。周辺諸国は、その電撃的な制圧劇に驚くよりもむしろ唖然とした。ベレルもアザークも、同盟国であるルシオンですら、呆気にとられたという。
だが、変化はガンディアだけが起こしたものではない。
少国家群の各地で起きている断続的な変化が、ようやく中央にも波及してきたのだという。北方では新たな国が起こり、その勢いのままに拡大しているという話もあれば、国を乗っ取った挙句、周辺の国々に戦争を仕掛けた魔王の話は、過大なまでに広められている。
北方。
ガンディアは、北へとその野心の向かう先を定めているようだ。それもそのはずで、南方には同盟国であるルシオンがあり、東は同じく同盟国のミオンがある。国土を広げるには、北か西へ進路を向けるしかない。強大なザルワーンよりも与し易いと思われるアザークを避け、ログナーに挑んだのはどういう意図があるのか。結果的にガンディアはザルワーンとの対峙を余儀なくされた。ザルワーンは属国であるログナーを併呑されたことで、ガンディアを全力で潰そうとするだろう。でなければ国としての威信は地に落ちかねない。
「ガンディアの意図など、わかりませんよ。なにせ、ガンディアの王は“うつけ”との噂ですから」
「噂でひとを判断してはいけないよ、ウォルド。実際に会って、確かめるまではね」
まるでこちらの頭の中を見透かしたかのような男の声に、クオン=カミヤは、肩をすくめた。壁にかけられた古ぼけた絵画から、背後に視線を移す。《白き盾》の制服を着た大男が、不思議そうにこちらを見ている。
ウォルド=マスティア。絵をぼんやりと眺めていたのが気になったのかもしれない。
絵画。天使が舞い降りるさまを描いているところをみると、宗教画なのだろう。ところどころ汚れが目立つのが残念だが、全体的には素晴らしい出来だといえる。雲間から差し込む光とともに降りてくる、一対の翼を持つもの。天使のイメージとは、異なる世界においても変わらないものなのかもしれなかった。
クオンたちがいるのは、山道の中程にあった小さな教会の中だ。何十年も放置されていたらしい建物は全体的に傷みが酷く、廃墟同然といっても過言ではなかった。そんな廃墟に立ち寄ったのは、にわかに雨が降り始めたからだ。長い道程。一休みするにもちょうどよく、雨が止むまで教会跡に篭もることにしたのだ。
幸い、屋根に大きな損傷は見られなかった。雨宿りするには十分だと判断された。
「雨宿りには、ちょうどいい建物ではありますな」
ウォルドの背後から老人が姿を見せた。スウィール=ラナガウディ。《白き盾》の参謀といっても過言ではない。クオンにとっては大事な相談役であり、彼がいなければ今頃路頭に迷っていたと思わないではない。この寄る辺なき異世界で自立して生きていく自信など、あろうはずもなかった。
「幸先が良いというべきかな」
「運不運はこの世を生きていく上では大事な要素。特に集団を率いていくものならば、運が良いに限りますな」
「違いない」
クオンは笑った。実際、天運には恵まれているほうだろうという自覚はある。この世界に召喚されて以来、その想いは強くなる一方だった。スウィールとの出会い、ウォルドやマナ、イリスたちとの巡り合わせも、その運の良さのおかげだと信じていた。彼らとの出会いがあり、いまがある。
幸福な境遇だと想う。
「運がいいといえば、ガンディアの王も幸運に恵まれていますな。ちょうどいい時期に稀有な人材を拾い、領地を奪還、そのまま敵国を飲み込んでしまったのですから」
スウィールの言葉にクオンは一瞬目を細めたが、ふたりが気づかぬうちに背後に向き直った。絵画には目を向けず、脳裏に浮かんだ少年のことを考える。
神矢刹那。元いた世界では、大切な友人だった。彼もまた、この世界に召喚され、武装召喚師として活動している。しかも、いま話題のガンディアの武装召喚師であり、“黒き矛”の雷名は少国家群に轟き渡っている。
(半年前のぼくと同じ)
“白き盾”が世間を賑わせたのも、いまや遠い昔のように思える。鮮烈な初陣での活躍は、ガンディアに痛手を負わせることになってしまったが、召喚されたばかりでこの世界の情勢について露ほども知らなかったクオンにはどうすることもできない事象だった。戦いに巻き込まれ、武装召喚術を行使させられ、いつの間にか勝利していた。ただそれだけのことだ。これといった感慨はなかった。ただ、生の戦争が恐ろしいものだと思い知ることができたのは、良い経験だったろう。
魔人の二つ名で恐れられる武装召喚師アズマリア=アルテマックス。彼女がみずからの召喚武装の能力を用いて異世界から呼び寄せたのが、クオンとセツナである。彼女の目的はいまのところ見当もつかない。少なくとも、クオンを鍛えようとしていたことは間違いないのだが、それがなにを意味するのかはわからなかった。
魔人の夢など、常人には理解できるはずもないのだが。
「ざっと調べてみましたが、ここは山賊の住処のようです」
そういって場の空気を一変させたのは、どこからともなく現れたグラハムだった。貴族然とした立ち居振る舞いは、身分を問わぬ《白き盾》の中でも浮いて見えたし、彼との出会いを考えれば、グラハムに対して良い印象を持っていない連中も少なくはなかった。
「山賊の根城……か。厄介な場所に飛び込んでしまったもんですな」
難しい顔をするウォルドの隣で、スウィールが長い眉を顰めてグラハムを見据えた。スウィールの彼への評価は厳しいものがある。それも当然だろう。グラハム自身、その評価を甘んじて受け止める覚悟があるようだった。
「グラハム殿、もっと早く気づかなかったのですかな」
「ベレルでは、ログナーとの国境付近で山賊に襲われたという報告があり、その対応を協議していたところだったのです。拠点を探ってはいたのですが、特定できてはいなかったのですよ」
もっともらしい言い訳ではあった。
彼のかつての名は、グラハム・ザン=ノーディス。ベレル王家に仕える騎士団の長であった彼は、天命に従い、当時ベレルと契約関係にあったクオンたちを抹殺しようとした。もっとも、彼の決死の行動は|《大いなる守護》の前に無力化され、クオンたちは事なきを得たのだが。しかも、グラハムの暴挙は彼の勝手な思い込みからくる勘違いであることがわかり、クオンは拍子抜けしたものだった。
だが、グラハムが仕出かしたことは、《白き盾》と契約したベレル王の顔に泥を塗るだけではなく、王家への反逆行為とも取れるほどのものとして弾劾されるまでに発展した。王は激しく怒り、彼のすべての名誉を剥奪し、財産を没収した。当然、騎士の称号も返上されたものの、死罪から免れられたのは、彼が王妃の血に連なるものであり、王妃が助命を懇願したからだという。
家も名も失い、ベレルを放逐されたグラハムは、むしろすっきりしたような顔で《白き盾》への同行を願い出てきた。彼は、クオンの下で剣を振るう事こそ天命だと主張し、クオンが同行を許可するまで引き下がらないと周囲を困らせたのだが。
クオンとしては、彼に因縁があるわけではない。襲われたとはいえ、それは勘違いであったというのだし、有能な人物ならば率先して仲間に加えたかった。もちろん、ベレル王国との契約中ならばそれも不可能な話だったのだが、折よく、契約期間が終わろうとしていたところだった。もとより再契約の予定はなく(ベレル側は契約延長を強く望んでいたが)、王都から離れてからなら同行しても問題はないだろうというのがスウィールの見解だった。
もちろん、団員からの反発はあった。なにせ、団長を亡き者にしようとした人物だ。その動機がどうあれ、そう簡単に信用できるものではない。
だが、善人も悪人も関係ないのが《白き盾》なのだ、とクオンはいいたかった。これまでもそうだった。いまでは影に日向にクオンを守ってくれているイリスも、最初は敵だった。強敵ほど心強い味方にもなりうる、というのがクオンの考えだ。甘い考え方かもしれないが、今後もそれを変えることはないだろう。
ともに歩んでくれるというのなら、前歴など関係ない。進むべきは未来であり、過去になど執着している暇はない。
結果、グラハムは《白き盾》の一員となり、周囲の視線などどこ吹く風で仕事に従事している。
「それがなぜわかったんです?」
「これです」
「短剣……?」
グラハムが目の高さに掲げたのは、鞘に細工の施された短剣だった。あまり高価なものには見えない。
「件の山賊が強奪したとの報告があった品です。参考資料として同種の短剣を拝見したことがありましてね。それと同型のものをこの教会で見つけたのですよ」
「山賊どもが強奪した金品を一時的にでも置いていたということか」
「根城のひとつに過ぎないかもしれませんが」
「報告ありがとう。さて、どうしたものかな?」
クオンは、ウォルドとスウィール、そしてグラハムを一瞥した。腹の中では、やることは決まっている。だが、こういった問題に直面した場合、まずその場にいる幹部に意見を言わせるのが、彼のやり方だった。そうすれば、クオンの考えだけでは見えないことも見えてくる。当然、場合によっては幹部の意見を採用することだってある。。
「雨が上がり次第ここを出るのがよろしいかと。山賊などは国に任せておけばよろしい」
「面倒事には首を突っ込みたがらないじいさんだな。俺なら山賊を取っ捕まえて褒賞金をがっぽりと、だな」
「わたしはクオン様の望みを優先的に考えておるまで。皇魔の巣ならまだしも、賊如きに手を煩わせる必要もあるまい」
「スウィールさんのいうこともわからなくはないけど、ぼくとしては見て見ぬふりはできないかな」
「目的地が遠のきますぞ?」
「たった数日のことじゃないか。皆には迷惑をかけるかもしれないけれど、山賊による被害が減るなら本望だよ」
その数日で状況が激変するようなことはないだろう。ガンディアはログナーを落としたばかりで動くに動けず、ザルワーンも自由に動かせる兵力だけではログナーを取り戻すこともできそうにない。あるとすれば、ガンディアとザルワーン間での小競り合いくらいだろう。それでなにかが変わるわけもない。
ザルワーンが本腰を入れてガンディア侵攻に乗り出すとすれば、一月以上は先のことになるだろうというのが大方の予想だ。むしろ、ガンディアがザルワーン攻略に乗り出すほうが先になるかもしれない。ガンディアは先の戦いで多くの兵を失ったというが、ログナーの兵力をほとんどすべて取り込んだという話もある。そこに同盟国の力が備われば、ザルワーンとも対等以上に戦えると判断する可能性もなくはない。
戦争が起きる。それは間違いない。ガンディアは北への野心を隠さないし、ザルワーンの野望も南へと向かっていたのだ。力を持った意志がぶつかり合えば、戦争へと発展するのは誰の目にも明らかだ。そして多くの死者が出るのもまた、明らかなのだ。
それは考えるだに恐ろしいことだ。無数の命が、わけもなく散っていく。戦場は恐ろしく、闘争は儚い。
「迷惑などとはだれも思いませんよ。じいさんだってそうだろ?」
「無論。余程のことがない限りはクオン様の決定には従いますとも」
暗に、組織に甚大な被害をもたらすような決定ならば、断固として反対するということだろう。それでいい。だからこそ安心して前へ進める。
「では」
「ああ」
グラハムに促されるまま絵画の前を離れようとしたとき、クオンはふと、足を止めた。頭上を仰ぐ。腐敗の進んだ木造の屋根からは雨水が染みこんでくるように見えた。
「どうされました?」
「いや……」
クオンは、再び絵画を見た。よくある宗教画だ。信心深くもないクオンにとって、特に感慨を覚えるようなものでもない。ましてや異世界の宗教だ。目新しさはあるが、それだけのことなのだ。
「なんでもないよ。行こう」
そういったものの、クオンは、心の何処かに引っ掛かりを覚えていた。
なにかに呼び止められた気がした。