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謎解きどき、晴れ  作者: 薩摩吾妻
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第三話 消えた報告書

 東京の朝は、どこまでも華やかだ。高層ビルのガラスに反射する陽光、通りを埋め尽くすスーツ姿の人々、カフェから漂うコーヒーの香り。地方から上京したばかりの頃、私はこの風景に圧倒された。けれど年月が経ち、今ではただの背景になっている。私の毎日は、狭いワンルームとオフィスを行き来するだけの単調なものだった。東京の煌めきは、私にとって眺めるだけのものに過ぎない。


 その朝、いつものように出勤して自席に腰を下ろした瞬間、オフィスの空気が少しざわついているのに気づいた。何事かと思えば、先輩社員の一人が課長の机の前で慌ただしく身振りをしていた。


「課長、すみません! 昨日提出したはずの報告書が見当たらないんです」


 その声に、周囲の人たちが顔を上げる。会議用の重要な資料だと聞こえてきた。小さなトラブルでは済まされない事態に、部署全体の空気が一気に緊張する。


「コピーは?」と課長が問うと、先輩は「データは残っているんですが、紙の方が……」と肩を落とした。


 そこから職場全体が一斉に探し始める。机の引き出し、棚、共用スペース。誰もが手を止めて報告書の行方を追った。しかし見つからない。会議はもうすぐ始まるというのに。


「会議室に忘れたんじゃないか?」

「昨日、机に山積みしてた資料に紛れたんだろ」


 憶測が飛び交い、少しずつ焦りが広がっていく。そんな中、社交的な高橋先輩が場を和ませるように言った。

「落ち着いて探せば大丈夫よ。昨日は皆、残業で疲れていたもの。置き忘れただけかもしれないわ」


 その言葉に、周囲が小さく頷いた。高橋先輩の言葉には不思議と安心感がある。人を和ませる力を持つ人なのだ。


 けれど私は、胸の奥に小さな違和感を抱えていた。昨日の夕方、私は確かにその報告書が課長の机に置かれるのを見た。もし会議室に置き忘れていたのなら、課長の手元に届いていないはずだ。誰かの言葉に皆が納得していく中で、私の頭の中だけが静かに否定していた。


 ――でも、言わない。言えない。


 私はパソコンの画面に目を落とし、表情を隠すようにキーボードを打ち始めた。非社交的な自分が声を上げることなどできない。職場で目立つことは避けたい。東京の街の喧騒を外側から眺めるだけのように、私はオフィスのざわめきをただ聞き流す。


「相原さん」


 突然名前を呼ばれ、驚いて顔を上げた。成瀬翔真だった。昨日も一昨日も、私の心の動きを見抜いて声をかけてきた人。男性社員には苗字で呼ばれ、女性社員からは親しげに名前で呼ばれている彼は、私にとってまだただの「隣の同僚」に過ぎない。


「気づいてること、ありますよね」


 射抜くような視線に、胸がざわついた。私は言葉に詰まり、視線を落とす。


「……でも、私が言うのはちょっと」


 小さな声でそう答えると、彼は一瞬考え込むように眉を寄せ、それから少し笑った。

「じゃあ、代わりに俺が言いましょうか。相原さんが気づいたこととしてじゃなくて、俺が気づいたことにして」


 私は驚いて彼を見た。そんなことをしていいのだろうかと思ったけれど、彼の目は真剣だった。胸の奥に渦巻いていた迷いが、少しずつ和らいでいく。


「……それなら」


 小さく頷くと、成瀬は立ち上がり、課長の方へと歩み出ていった。その背中を見送りながら、私の心臓はまた早鐘を打ち始めていた。


 成瀬翔真は課長の前に立ち、落ち着いた声で言った。

「課長、昨日の報告書ですが……会議室にはないと思います。昨日、確かに課長の机に置かれていましたから」


 その言葉に周囲がざわめいた。高橋先輩が目を丸くし、他の社員たちも顔を見合わせる。課長は腕を組み、少し考えるような仕草をした。

「確かに、そう言われてみれば……受け取った覚えはある」


 ざわめきはさらに大きくなった。成瀬の言葉が、皆の思い込みを揺さぶったのだ。会議室に置き忘れたという説に納得しかけていた空気が、一気に変わっていく。


「なるほど。課長の机にあったなら、会議室説は違うかもしれないね」

「じゃあ、課長の手元からどこかに移動したってこと?」


 社員たちは次々に頷き、成瀬の指摘に納得しているようだった。だがそのとき、ひとりの社員が口を開いた。

「でも、それなら余計におかしくないですか? 課長の机にあったのなら、課長自身が見ているはずでしょう。『受け取った覚えはある』っていう言い方も、ちょっと曖昧だし……」


 再び空気が揺らぐ。成瀬は一瞬言葉を失い、視線を落とした。確かにその通りだ。机にあったのに課長が気づいていなかったというのは矛盾している。場の雰囲気が再び不安定になる中、彼はゆっくりと顔を上げ、まっすぐに私を見た。


 助けを求めるような視線。心臓が強く打つ。けれど逃げることはできなかった。


「……課長、失礼します」


 声が震えたが、はっきりと言葉を紡いだ。

「昨日の夕方、課長は電話を受けていました。そのとき、机の上の資料をまとめて抱えて移動していました。そのときに報告書が他の資料の下に紛れ込んだんだと思います」


 沈黙の後、課長がはっとしたように机の引き出しを開けた。数秒後、一冊の報告書を取り出す。

「……あった!」


 その瞬間、オフィス全体が安堵の息を漏らした。成瀬の指摘が最初の糸口となり、私の言葉で真実にたどり着いたのだ。高橋先輩が感心したように笑い、周囲も納得した表情を浮かべる。


 課長は報告書を掲げて言った。

「相原、成瀬。ありがとう。二人のおかげで助かった」


 私はどう返事をしていいかわからず、思わず成瀬を見た。彼は私に視線を返し、静かに微笑んだ。その表情には、自分の手柄を誇るような気配はなく、ただ純粋に「一緒に解決できた」ことを喜んでいるように見えた。


 報告書が見つかり、部署の空気は一気に和らいだ。課長も満足げに頷き、机の上にきちんと置き直す。その場にいた誰もが安心し、日常へと戻ろうとしていた。


 けれど、私の胸の奥では別の感情が渦巻いていた。――声を出してしまった。普段なら決してやらないこと。注目を浴びるのが苦手な私が、どうしても黙っていられなかった。成瀬が視線で助けを求めたからだ。それがなければ、私は最後まで黙っていただろう。


「相原さん」


 小声で呼び止められ、振り向くと成瀬が立っていた。オフィスのざわめきにかき消されそうな声で、しかしはっきりと私に向けられていた。


「さっきの、すごく助かりました」


「……別に」


 どう返していいかわからず、思わず短い言葉でごまかした。だが彼は気にした様子もなく、むしろ柔らかく笑っていた。


「俺が言ったことだけじゃ足りなかった。でも、相原さんが補ってくれたから解決できた。二人でやったことですよ」


 その言い方に、胸の奥がくすぐったくなる。手柄を奪うでもなく、持ち上げすぎるでもなく、自然に「一緒に」と言ってくれる人。私は視線を逸らし、パソコンの画面を見つめた。


「……次は、最初から相原さんが言えばいいんじゃないですか」


 成瀬がさらりと言った瞬間、心臓が跳ねた。彼の声は優しく、責めるような響きはまったくなかった。それでも私には重すぎる提案だった。


「無理です。そんなの……」


 即座に否定すると、彼は少しだけ首を傾げ、それから肩をすくめた。

「じゃあ、また俺が代わりに言いますよ。俺が気づいたことにして。相原さんが言いたくないなら、それでいい」


 思わず彼を見つめてしまった。その表情には偽りがなかった。からかいでもなく、好奇心でもなく、ただ私の気持ちを尊重しようとする真摯さがあった。


「……そんなことでいいんですか」


「いいんですよ。俺は別に、どう思われても困りませんから」


 軽く笑いながら言う成瀬を見ていると、胸の奥の緊張が少しずつ解けていく気がした。私が人前で話すのが苦手なことを、無理に変えようとするのではなく、そのまま受け入れようとしてくれている――そう思えるだけで、心が少し軽くなる。


 そのとき、背後から高橋先輩が声をかけてきた。

「二人とも、本当にありがとう。あの場で落ち着いて指摘できるなんて、なかなかできないことよ。特に相原さん、意外だったわ」


 にこやかに微笑む先輩に、私は言葉を失った。意外、という言葉が妙に心に引っかかる。確かに普段の私は静かで、会話にも積極的に加わらない。そんな私が声を上げたことに、驚かれるのは当然かもしれない。


「いえ……」


 小さくそう返すしかなかった。だが高橋先輩の笑顔は温かく、決して私を責めるものではなかった。それだけが救いだった。


 窓の外に目をやると、夕暮れの東京が広がっていた。高層ビルのガラスに赤い光が反射し、街全体がきらめくように見える。そんな光景を前に、私は心の中で小さく呟いた。


 ――少しずつ、変わっていけるのだろうか。


 まだ答えは出ない。けれど、成瀬や高橋先輩と交わした言葉が、心の奥でじんわりと温かさを残していた。


 その日の業務は、報告書騒動の一件を除けば順調に進んだ。会議も無事に終わり、課長からは「次からは資料管理を徹底するように」と一言だけ注意があった。重苦しい空気はなく、むしろ部署全体が少し結束を強めたように感じられた。


 私は定時で退社し、オフィスを出てビルの前に立った。夕暮れ時の東京は、昼間の喧騒から夜のきらめきへと切り替わる瞬間だった。ビルの窓に反射するオレンジ色の光、通りを埋め尽くす人々の流れ、華やかな街灯の準備。すべてが活気にあふれていて、まるで舞台装置のように整えられていた。


「相原さん」


 振り返ると、成瀬が立っていた。彼も帰るところらしく、肩にかけた鞄が少し傾いている。夕日の逆光に輪郭が浮かび上がって、普段よりも落ち着いた印象を与えていた。


「今日のこと、本当にありがとうございました」


「……別に」


 またその言葉しか出てこない。けれど今度は、少しだけ声が柔らかくなった気がした。


「俺、正直に言うと……報告書の件、相原さんが気づいてくれてなかったら何もできなかったです。だから、あの場で助けてもらえてよかった」


 その言葉に、胸が温かくなるのを感じた。成瀬は自分の手柄にしようとせず、あくまで「一緒に解決した」と言ってくれる。その自然さが心地よかった。


「……でも、あんなふうに注目されるのは苦手です」


 正直に打ち明けると、成瀬は少しだけ笑った。

「無理に慣れる必要はないですよ。じゃあ、相原さんが気づいたことは、俺が代わりに言います。相原さんが前に出たくないなら、俺が声にします」


 その言葉に、思わず息をのんだ。からかいでも慰めでもなく、本気で私の気持ちを尊重しようとしていることが伝わってきた。


「……そんなことでいいんですか」


「いいんですよ。俺はその方が動きやすいですから」


 さらりと言う成瀬に、胸の奥が少し軽くなった。強引に変えさせるのではなく、そのままの私を受け入れてくれる。その感覚が不思議で、温かかった。


 それだけ言って、成瀬は「じゃあまた明日」と手を軽く上げ、駅の方へ歩いていった。背中が人混みに溶けていくのを見送りながら、私は小さく息を吐いた。


 ――変わっていけるかもしれない。


 まだ自信はない。けれど、ほんの少しだけ東京の街が自分に近づいたように思えた。きらめく夜景が広がるこの街で、私は少しずつ、自分の居場所を見つけていけるのかもしれない。




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