第二話 消えたドーナツの行方
東京の朝は、いつも光に包まれている。高層ビルのガラスに反射する陽射しは眩しく、街を歩く人々の足取りも軽やかに見える。通勤途中、私は人の波に混ざりながら駅からオフィス街へと向かった。地方の小さな町から上京して数年、今ではこの華やかな風景が毎日の背景になっている。だが、休日に散策したり、流行のカフェに足を運んだりすることはない。私は非社交的だからだ。東京の華やかさを横目に見ながらも、それを自分の生活に取り込むことができず、狭い部屋と会社を往復するだけの日々を送っていた。
この日も、いつも通りにオフィスへ到着した。朝の会議に備えてデスクに座ると、同僚たちのざわめきが耳に入ってきた。
「差し入れのドーナツがなくなってる!」
誰かが声を上げると、周囲が一斉にそちらに視線を向けた。休憩スペースに置かれていたはずの箱が、忽然と姿を消していたらしい。昨日の夕方、営業の田中さんが「皆さんでどうぞ」と持ってきて、机の上に置いたのを私も見ていた。
「誰かが持って帰ったんじゃ?」
「いや、まだ誰も手をつけてないはずだよ」
「それに全員分あるって言ってたから、勝手に持ち帰る人はいないだろ」
小さな事件のように、職場全体が少しざわついていた。東京のオフィス街の一角で起こった出来事としては些細なことだが、朝の空気をちょっとだけ賑やかにしていた。
「まあ、誰かが片づけたんじゃない?」
誰かが軽く言った。それに対して温和な性格で知られる高橋先輩が笑顔で続けた。
「甘いものだから、冷蔵庫に入れておこうと思った人がいたんじゃないかしら」
「なるほど、それなら納得だ」
「冷蔵庫なら安全だしね」
人々はその意見で落ち着きかけた。しかし私は違和感を覚えていた。昨日、田中さんはドーナツの箱に保冷剤をつけて「溶ける前に食べてください」と言っていた。つまり、常温でも問題はないという意味だった。わざわざ冷蔵庫に入れる理由はないのではないか。
けれど私は声を上げなかった。非社交的な性格が邪魔をする。周囲の議論を黙って聞きながら、パソコンのモニターに視線を落とす。
「相原さん」
突然、隣の席から声をかけられて顔を上げると、成瀬翔真がこちらを見ていた。整った雰囲気をまとった同僚。男性社員からは「成瀬」と呼ばれ、女性社員からは「翔真さん」と親しげに呼ばれる人物だ。私はまだ彼をそう呼んだことがない。
「気づいてること、あるんじゃないですか」
「……どうしてそう思うんですか」
「表情。納得してない顔してたから」
私は言葉に詰まった。昨日の出来事でもそうだった。どうして彼は、私が黙って抱えている違和感に気づくのだろう。ためらいながらも、小声で矛盾を説明した。冷蔵庫説ではおかしい、と。
「なるほど。じゃあ相原さんが言えばいい」
「……無理です」
「またか。じゃあ俺が気づいたことにしようか?」
私は小さくうなずいた。昨日と同じ展開だ。波風を立てずに済むなら、それでいい。
昼休み、成瀬翔真は同僚たちを集めて言った。
「ドーナツ、冷蔵庫にあるんじゃないと思う。保冷剤がついてたし、入れる理由はなかった」
だが高橋先輩がすぐに反論した。
「でも机の上にはなかったのよ? だったら片づけたと考えるのが自然じゃない?」
彼は言葉に詰まり、私に視線を送ってきた。助けを求める目。昨日と同じだ。
……仕方ない。私は立ち上がった。
「高橋さん、それは違います」
突然の声に皆が振り向いた。胸が早鐘を打つ。それでも言葉を続けた。
「昨日、田中さんがドーナツを置いたとき、保冷剤が溶けないうちに食べてほしいって言ってました。つまり机の上に置いたままで問題なかったんです。だから冷蔵庫に入れる理由はない。きっと――掃除の方が片づけたんです」
課長が「ああ」と頷いた。
「そういえば午前中に清掃が入ったな。机の上の箱をゴミと間違えたのかもしれない」
周囲から納得の声が広がった。高橋先輩も笑顔で「なるほどね」と言った。私は小さく息をつき、席に戻った。窓の外には東京の街が広がっている。ビルの谷間を縫うようにモノレールが走り、銀色の車体が陽光に輝いていた。
成瀬翔真が隣で小さく笑った。
「やっぱり助かった。ありがとう、相原さん」
昨日と同じ言葉。それでも、胸の奥には昨日よりも少し強いざわめきが残った。
その日の午後から、彼と私の間で交わされる言葉はほんの少し増えた。東京の華やかな光景は、窓の外だけではなく、少しずつ私の内側にも広がり始めていた。




