籠の中の鬼
雪乃に初潮が来た。
綾乃はその報を受け、仕事を放り急ぎ屋敷に帰る。
雪乃の自室に向かい、逸る心を抑えるように、ひとつ息を吐きノックをした。
返事があり、不安と希望を胸にドアを開ける。
——希望はアッサリと打ち砕かれた。
雪乃の背後に浮かび上がる、小さな赤い扉。
呪われた朱色。
紫星の女にだけ開かれる、鬼への通路。
それが視界に映った時、綾乃は思い出す。
自分の望みは叶う事が無い。
そんな当たり前の事を、改めて突き付けられた。
この子はもう、普通の幸せというのは手に入らない。
枯れ果てたはずの感情が、静かに綾乃の頬を濡らす。
最後に涙を流した時は遠い昔。
紫星の女には、涙を流す自由すら無かったのだから。
そして綾乃は気付く。
いつの間にか雪乃は、自分にとって生まれて初めての『大切』となっていたことに。
涙を隠す余裕もないまま、雪乃を抱きしめ、強く言い聞かせた。
『貴方には今後、男性と話をすることも、近寄ることも許しません』
『もしそれを破ったら、恐ろしいことが起きます』
『結婚相手は私が見つけます、それまで男性と一切の接触をしないことを誓いなさい』
恐らく、近いうちに事は起こる。
それは避けられないだろう。
それでも、自分と同じ思いは味合わせたく無かった。
人が目の前で死に続けるという絶望を。
綾乃は籠を作った。
雪乃を守る為の籠だ。
雪乃には、万が一を考え女子しかいない学校を選んでおいた。
屋敷には女中しかおらず、習い事の師も女性のみとしていた。
その籠は、雪乃を男の接触から守ってくれる筈だった。
ただ、綾乃は世間の常識に疎かった。
自身が学校という施設に通った事がなく、手続きは全て屋敷の者に任せていた。
その為に、女子校にも男性教師というものが存在しているという事実を知らずにいたのだ。
そして事が起こる。
雪乃が男性教師に襲われて、逆に相手へ怪我を負わせたとの連絡が届いた。
綾乃は急いで屋敷に戻った。
教師は昏倒しただけで、そこまで酷い症状では無いとの報告を受けていた。
しかし、綾乃の心は怒りで占められていた。
雪乃の部屋の前に立ち、自身の感情を見せないように抑え付け、ノックをして入った。
雪乃は座り込み、ただ呆然としていた。
それを見て、綾乃の心は憎悪で黒く染まる。
過去の自分と重なるその姿は、胸を掻き毟る程の心の痛みを覚えた。
「……だから言っただろう」
その言葉だけを、どうにか絞り出せた。
今すぐにでも、男に対しての呪詛が溢れ出そうとしていたのだ。
それらを口に出してしまえば、きっと傷付いた雪乃を今以上に怖がらせてしまう。
自分の顔が醜く歪む前に、綾乃は急ぎ部屋を後にした。
きっと雪乃は気付いたはずだ、己に何が憑いているのかを。
失態だった。
綾乃は、自分の作った籠の不十分さを後悔した。
そして、怒りのままに件の男性教師を呪った。
殺すには及ばず、再起不能に留めた。
このような事で、雪乃の心に罪悪感を残したくなかったのだ。
その結果、雪乃は付属の女子校へは行けなくなった。
だが、それも良い機会かもしれないと考えを改めた。
この先、雪乃が男と全く接せずに生きる事が難しい事を知ったからだ。
少しの間、男が側にいる環境へ入れて、雪乃自身に男との距離を学ばせる事も必要だと思った。
そうすれば、雪乃は自ら男と距離を置くだろう。
幸い、雪乃の鬼はまだ力が弱い。
そこまで大事にはならないという目論見があった。
折を見て、また他の女子校へ通わせれば良い。
それまでは、金を積めば入れる近場の学校へ入れよう。
こうして雪乃は男女共学の高校へ通う事となる。
綾乃の目論見通り、雪乃は男との距離の取り方を理解し始めたらしい。
多少の犠牲は出たみたいだが、相手の怪我は骨折程度で、さして問題とはならなかった。
この分なら夏休み明けには転校させても良いかもしれない。
経過報告を聞いてそう考えていた。
しかし、そこに耳を疑うような連絡が入る。
『雪乃が男と連れ立って屋敷に帰ってきた』
『あまつさえ、仲睦ましやかに寄り添って』と。
綾乃は、その報告は何かの間違いだろうと思った。
男に対する嫌悪も、恐怖も身に染みているはずだ。
そして何より、鬼が近づくのを許さないはずだった。
念の為、屋敷に向かい、車内にて男の素性を調べさせる。
家人に撮らせた本人の写真を元に調べると、それはあの一条家の長男だという。
一条家——それは紫星と肩を並べる権力を持つ財閥だ。
そして、綾乃と因縁のある相手でもあった。
数年前、一条の実質的な支配者である『一条遙』と仕事上の問題で敵対したのだ。
その時は結局痛み分けとなったのだが、その存在を危険視していた綾乃は、遙が入院したという情報を得て呪詛を送った。
遙が万全で有れば、返されたであろうその呪いは、弱った身体と精神に上手く絡み付いてくれた。
そのまま時間を掛けて、死ぬか廃人にでもなってくれる筈だった。
そんな忘れかけていた名前を不意に耳にして、綾乃は訝しむ。
『一条アキラ』
その名は昔、政財界に轟いていた。
曰く、不世生の天才。
一条の麒麟児。
会った事は無かったが、噂だけは耳にした事があった。
なにより、その子供が病に臥せったからこそ、その子供を溺愛していた遙に呪詛の効く隙が出来たのだ。
確かとっくに廃嫡され、表舞台から消えたはずの子供。
そんな外れた牌が、今になって何故か紫星の屋敷に雪乃を伴って来たという。
目的の検討は幾つか思い付くが、実際本人に確かめてみなくては本当の所は分からない。
どちらにせよ碌な事では無いだろう。
試した事は無いが、男が欲情を抱いて触れなければ、鬼が出てくることは無いのかもしれない。
何にせよ、雪乃に付いた害虫を駆除する事に変わりはない。
焦りを見せぬよう気持ちを抑えながら、車内で万が一の時の為の覚悟を決める。
綾乃は、子供に対して呪術を行使した事は無かった。
自分の相手は、屑か商売敵、あとは呪術者などの異能の者達だったからだ。
しかし、場合によってはそれすら辞さないという覚悟だった。
屋敷に着き、二人が待つ部屋の襖を開けると、確かにそこには男がいた。
しかし、男というよりかは少年と言った方が正しいだろう。
その少年が挨拶をしてきた。
綾乃は、少年を無視して雪乃を見つめる。
それは雪乃の初めて見る表情だった。
不安と緊張、恥ずかしさ、そして喜びが混ざったような顔。
綾乃はそれを見て、瞬発的に口にした。
「消えよ」
一緒にいれば我が子が深く傷つくだろう。
そんな分かりきった絶望の未来、それを綾乃は見たく無かった。
少年は、その言葉が耳に届いてないかの如く、雪乃の手を取り立ち上がらせた。
そして、綾乃の逆鱗に触れる言葉を吐き出したのだ。
「雪乃さんと子供をつくります」
それは綾乃にとって、最も許されざる言葉だった。
抑えきれない怨嗟が漏れる。
殺気と共に漏れた呪いは、目の前の座卓を切り裂いた。
紫星を壊す。
雪乃を呪いから遠ざける。
その為に生きている自分にとって、絶対に避けるべきは雪乃が子を孕む事。
将来、雪乃が独り立ち出来るようになったら、養子でも貰い幸せに暮らせばいい。
そして、紫星の関係するものは全て壊し、手放すのが綾乃の本懐であった。
それを成す為だけに、残りの短い寿命を使い切るつもりだった。
その望みを真っ向から否定する言葉。
許すわけにはいかない。
「この痴れ者の言う言葉は本当か?」
一縷の望みを賭けて、雪乃の気持ちを聞いてみる。
例えどんな答えだろうと、下す決断を変えるつもりはない。
だが、もしかしたらそこまで強い想いでは無いかもしれない。
自分が本気で反対していると分かれば、引いてくれる可能性はある。
雪乃は、今まで自分に逆らった事など無いのだから。
しかし、綾乃の心からの願いは、叶わないのがこの世の決まりだった。
「私は、彼の子を産みます」
それが雪乃の出した答えだった。
雪乃が初めて自分に逆らった。
その事実を持って、覚悟を決める。
きっと、もう雪乃は自分に笑いかけてはくれないだろう。
憎まれるかもしれない。
それでも、これだけは許すことは出来ない。
許してはいけないのだ、我が子の為に——。