彼女の趣味は珈琲焙煎
アキラは、紫星の屋敷から車で十分ほどのマンションの一室にいた。
あの後、綾乃と一緒に運転手付きの車に乗り、そのまま無言でこのマンションまで同伴したのだ。
十五階建てのマンション。
そこの、ペントハウスと呼ばれる最上階にある部屋のリビングで、アキラはソファーにゆったりと座り寛いでいた。
リビングの窓の外には屋上が続いており、草花が庭のように整えられていた。
正面の壁全面がガラス窓になっており、そこから屋上庭園への出入りが可能になっている。
「いい部屋ですね」
薄暗い部屋の明かりが、屋上の先に見える夜景を美しく際立たせていた。
綾乃は、コーヒーが入ったカップをアキラの目の前に置き、そのまま正面に座る。
「ああ、ここは私の個人所有のマンションでな、色々と便利で気に入っている」
その声色は、先ほどまでの鋭さは鳴りを潜め、客人に対するものへと変わっていた。
「それで、一条の廃嫡されたおぼっちゃんが、どういうつもりだ?」
事前に下調べは済んでいる。
そう言外に匂わせた。
「先ほど申し上げた通りです、お嬢さんと子作りをしたいと思ってます」
そう言って、カップに口を付ける。
「それは阿呆の振りか?それとも神童と名高い麒麟児が壊れたという噂は本当だったか」
綾乃は、口元に冷笑を浮かべながら、蔑んだような目を向ける。
「精々、雪乃に取り入って、一条の当主候補に戻ろうといった所だろうよ」
浅い魂胆だと言わんばかりに吐き捨てた。
「雪乃さんが望んだので、挨拶に来ただけですよ」
アキラは、にこやかに本音をぶつける。
「そうか、まあいい」
アキラの態度が一向に変わらないのを見て、探りを入れるのをやめ、要件を告げる。
「諦めるか、それとも死ぬか、今すぐ選べ」
アキラがカップを置いたのを見計らって、綾乃は事前に用意してあった選択を突きつけた。
「やっぱり親子ですね、雪乃さんと同じようなことを聞いて来る」
嬉しそうに笑うアキラに、綾乃の纏う空気が変わる。
「……貴様、一条だから殺されないと、高を括っているのか?」
その目には、殺気が宿っていた。
脅しではない。
選択次第では容赦しないという、明確な意志が込められている。
「今の僕は、一条の肩書を持っていませんよ」
アキラは身ひとつで、ここに来ている事を伝える。
「それに綾乃さんは実際、一条の——僕の母を殺しかけましたよね」
微笑みと共に告げられたその言葉で、綾乃は初めてアキラを警戒する。
瞳が細まり、空気が重く沈む。
「……何故、そう思う?」
その質問は、すでに罪の自白に近いものがあった。
しかし、確認をしなければならない。
紫星綾乃は呪術師であった。
そして、一条家の実質的な当主である一条遙に、呪いを掛けたという事実があったのだ。
お互いの家が抱える企業の揉め事が理由だった、そこには個人的な理由も含まれてはいたが。
そしてその事実が露呈すれば、一条家と、その後ろに控える大和家との全面戦争が起こる。
そうなると、もはや個人の話では無くなってくる。
それをネタに、雪乃がこの小僧に奪われる可能もあるかもしれない。
アキラが何を理由にその答えへ辿り着いたかは、絶対に聞き出さねばならない事だった。
「久しぶりに母と会ったら呪詛が染みついてまして、それが綾乃さんと同じ匂いだったからですよ」
あっさりと答えを言うアキラに、綾乃は自身の認識を改める。
「なるほど……雪乃の鬼が、貴様を始末出来ていない理由が分かった」
綾乃の眉間に、嫌悪の皺が寄る。
「貴様——異能者か」
綾乃の警戒心が最大限に引き上げられた。
「あの鬼ですか、下手に消すと雪乃さんに影響出るから、二人で大事に育てていこうかと思ってます」
まるで、自分達の子供を育てるといったノリで、朗らかに言うアキラ。
「ふざけるなよ小僧……」
そう言って綾乃はゆらりと立ち上がる。
そして自身の胸元に手を入れると、そこには、数枚の御札が握られていた。
それは、自身の血で呪詛を塗り込んだ特殊な呪符。
それを座っているアキラに向けて、前後左右へ飛ばす。
物理の常識を無視した動きで、呪符は空中に留まり、アキラを囲むように配置される。
アキラは、ちらりと呪符を見ると、何事もなかったかのようにカップに手を伸ばした。
「油断か慢心かは知らぬが、紫星の呪術、見縊るなよ」
綾乃が印を結ぶと、呪符はアキラを中心に回転し始めた。
四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚。
アキラの周囲を廻る回数が増える毎に、その枚数が倍増していく。
呪符が周囲の物に当たると、それは固い刃物に引き裂かれたような切り口を残した。
アキラの座っているソファーが、端からミキサーに掛けられたように粉々になっていく。
やがて、アキラの姿が見えなくなるほどの、紙の嵐が空間を埋め尽くす。
それは躱しようのない殺意の刃だった。
「どうする小僧?雪乃を諦めると言えば、腕一本程度で許してやるが」
その表情は、嗜虐的な笑みで歪んでいた。
「このコーヒー美味しいですね、酸味が僕好みです」
もはや姿が見えないほどの呪符が舞う、その中心点からコーヒーの味を評価するアキラ。
それは、慈悲を無視する者の声だった。
「……死ね」
その言葉を合図に、千を超える刃がアキラを襲う。
固い物が削られていくような音が鳴り響く。
殺意が渦を巻くように迫る中、アキラは、カップを持つ手とは逆の手を、横へ一振りした。
それだけで、嵐はやんだ。
空気が静まり返る。
空中を埋め尽くしていた呪符は、まるで命を失ったかのように、空中でひらひらと舞い落ちながら消えてゆく。
アキラの伸ばした二本の指先には、四枚の御札が挟まっていた。
それは、綾乃が最初に放ったモノ。
「ソファー、一人掛けになっちゃいましたね」
御札をテーブルに置き、そう言って面白そうに笑うアキラ。
その姿を見て、綾乃は驚愕した。
この若さで、これほどの腕を持っている者。
並の異能者ではない。
そして何より、その余裕が底の深さを物語っていた。
綾乃は、自分の目方の甘さを知る。
久方ぶりに自身の緊張を感じ、唇を舐めた。
「もしよかったら、豆の種類と焙煎に必要な長さを教えてもらえませんか?」
アキラは、彼女の実家へ遊びに来た体を崩さない。
その柔らかさが、綾乃の怒気をさらに煽る。
「ふざけるなと言ったはずだぞ、小僧!」
綾乃は髪に差してある簪を外し、それを両手で挟む。
腰まである長い髪がバサリと音を立てて垂れた。
綾乃は呪詛を口にする。
「我が声、黄泉に届かん」
「血に染まりし契約のもと、汝の名、千の夜に刻まれよ」
「影より影へ、苦悶を纏いて歩め」
「解かれぬ鎖となりて、永劫に彷徨え」
綾乃の両手に挟まれた、細工が施された薄黄色の一本軸簪が、墨汁を吸っているように黒く染まっていく。
「このマンションにはな……人間が飼われている」
目を見開き、薄笑いを浮かべながら言葉を並べる。
「紫星に仇なした者、多重債務者、凶悪犯罪者、それらを外から鍵をかけ詰め込んでいる」
簪の周囲が黒く淀みだす。
「何故だか、わかるか?」
理解しているだろうと問う。
「呪術の力を上げる為ですよね、下の階から呪力をどんどん吸い上げてるのが見えますよ」
アキラはカップを手に、微笑みながら答える。
「そうだ、愚かな人間ほど呪いの媒体には丁度いい」
「恨み、苦しみ、欲望、絶望、それらが呪いの力へと変換される」
「見よ、この禍々しいまでに黒く染まった簪を」
綾乃の両手が朧気にしか見えないほど、簪の周囲は濃密な黒い気配に包まれていた。
「でもそれ、体にあまり良くないですよ」
アキラは、綾乃を心配するように言った。
その声音には、皮肉も挑発もなかった。
ただ、静かな事実として、命の消耗を見ていた。
「ああ、だから紫星家は短命なのだ」
綾乃は、淡々と答える。
まるで、それが当然のことのように。
呪術を行使する者の定め。
それは、行使する自身にも跳ね返りが少なからずある。
力を振るうたびに、命が削られる。
呪いを操るたびに、臓腑が蝕まれる。
それでも紫星家は、代々その道を選び続けてきた。
力と引き換えに、寿命を捧げる家系。
綾乃の母も、祖母も、曾祖母も、五十を越える前に亡くなっている。
おそらく自分もそうだろう。
だが、それと引き換えに絶大な力を行使できる。
それが脈々と続いた紫星の血統であった。
「この簪はな、鬼の角で出来ている」
綾乃の瞳は、狂気を帯び始めていた。
爛々と輝くその光は、理性の奥に潜んでいた嗜虐的な陶酔。
妖艶な口調と共に、空気がじわじわと軋み始める。
「紫星の女は、生まれながらに鬼の住処への扉を開く力を持っていてな」
「それは初潮を切っ掛けとして目覚めるのだ」
「そして出産を済ますと、鬼が自らの骨を契約の証として渡してくる」
「それを触媒として、自在に鬼を呼び出せるという訳だ」
「込める呪力が強ければ強いほど、契約した鬼も強力になっていく」
「そして今、これにはこの住居にいる全ての命を吸わせてる」
簪を片手で持ち、目の前に掲げた。
「その意味、わかるか?」
リビングの窓ガラスが内側から割れて、庭園となっている屋上に飛び散る。
それに伴い、部屋に風が吹き荒れた。
綾乃の長い髪が風に巻き込まれ、意思を持つようにうねる。
その姿は夜叉そのもの。
「幽世の門、今ここに開かれん」
「血と影にて契りし我が声、黄泉の深淵より応えよ」
「禍継鬼よ、我が呼びに応じ、現世に顕現せよ!」
呪詛が終わりを告げた瞬間、庭園の中央に湧き出るように扉が現れた。
縦横ともに5メートルはある、巨大な観音開きの扉。
深紅に染められたその表面には、象形文字のような刻印が浮かび上がっている。
その隙間から、待ちきれず這い出るように現れたのは、巨大な漆黒の腕。
その腕は異様に長く、肘から先が二重関節になっている。
指は四本だが、爪は獣のように湾曲し、黒曜石のような光沢を持つ。
その腕が地面を叩くと、コンクリートが弾け、ビルが振動した。
そして全身が現れる。
身の丈は四メートルを超えていた。
骨格は人間に近いが、関節の位置が微妙にずれており、見る者に妙な違和感を残す。
背筋は極端な猫背で、首は常に少し傾いていた。
漆黒の肌は滑らかで艶があるが、ところどころに裂け目が走っており、そこから赤黒い光が漏れている。
その裂け目は脈動しており、まるで内側に別の生き物が蠢いているようだった。
顔は仮面のように無表情。
目は三つ、左右に一対、そして額に一つ。
すべてが瞳孔のない白色で、光を反射せず、見る者の心を掻き乱すような不気味さがある。
口は裂け、開くと獣のような牙が並んでいた。
髪は白銀で、根元から先端にかけて徐々に黒く染まっている。
額からは、角が二本伸びていた。
左は鋭い牙のような角、右はそれが途中から折られていた。
腰には皮が巻かれており、首元には黒い首飾りのような装飾が付けられている。
瘴気を存分に纏った体は、そこに居るだけで人の命を削り取る存在だった。
それは、禍継鬼。
綾乃が百を超える人間と、自らを餌に育てた、血と呪いの化身。
「終わりだ……小僧」
既に、半分正気を失っているであろう、狂気を帯びたその笑みは、もはや綾乃自身が鬼と化しているようだった——。