表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/48

164キロ内角高め

 二人は、手を繋いで雪乃の実家である紫星の屋敷に向かっていた。


「まずは母に会って欲しい」


 雪乃が、そう願ったからだ。


 小鬼は、二人の後ろをヒタヒタと着いてきている。

 自分の投擲が、何ひとつ効果の無い事に歯ぎしりし、アキラを睨むだけになっていた。


 雪乃は、繋いだ手から伝わってくるアキラの体温に、心まで溶かされている気分だった。

 浮かれていたと言ってもいいだろう。


 もはや、小鬼の存在など気にも留めないくらいに。

 

 実際、小鬼は自分達以外には視えていない。

 すれ違う通行人は自分達を微笑ましく見るだけで、後ろを歩く小鬼に気付く事は無い。


 母は何と言うだろうか?


 屋敷が近づくにつれ、浮かれた雪乃の心は少しづつ曇っていく。

 

 おそらくは反対するだろう。

 母は、自分が結婚相手を見つけてくると言っていた。

 あの人が一度口にした言葉を(ひるがえ)したりはしないことを、雪乃はよく知っていた。


 『紫星の女帝』

 

 それが世間での母の異名。

 紫星家は、古くから金融業で財を成した家柄だ。

 それゆえに敵も多い。

 

 それを母は、女の身ひとつで全てねじ伏せてきた。

 

 幼少の頃から、大の大人が目の前で這い(つくば)り、母に涙を流して赦しを乞う場面を何度も見てきた。

 自ら自分の指を落として母に詫びる姿も、決して珍しいものでは無かった。


 母が頭を下げた姿など見た事もない。

 人は常に母へ(かしず)き、従うのが当たり前というのが雪乃の世界だった。

 

 その姿を評して、人々は彼女を『女帝』と呼んで恐れていた。


 紫星の家は、代々女性が家督を継ぐ。

 そして、早くに子供を産むのが習わしだった。

 

 実際、母は十六という若さで結婚し、すぐに私を産んでいる。

 

 祖母も同じように母を若くして産んで、雪乃が小学生の時に亡くなった。


 祖母は屋敷の離れに住んでおり、触れあった記憶はほとんど無い。

 その少ない記憶に残っている彼女は、陰鬱な空気を(まと)った寡黙な人だった。


 

 屋敷に着いた頃には、もう日が沈み始めていた。


 二千坪はあるだろか、それは長い歴史を感じさせる建物だった。

 その正門をくぐると、控えていた使用人は驚き戸惑っていた。

 

 通常より遅く帰ってきた雪乃が、友人らしき人物と共に門をくぐる。

 それ自体が初めての事であり、しかも相手が男性。

 その上、仲詰むまじく手まで握り合っていた。

 

 客間に通されたアキラであったが、使用人たちの視線は奇異な者を見る目であった。

 

 小鬼はいつのまにかその姿を消していたが、その気配は雪乃の側に張り付いたままだった。


 おそらく、誰かが母に連絡したのだろう。

 母が、これから屋敷へ到着すると告げられた。

 

 それ自体がすでに異常事態であった。

 私の事で仕事を放って帰ってきたことなど、初潮が来た時と中学の事件の時しか無かったからだ。


 この後の事態を想像すると、体が強張るのを感じた。

 不安になり隣のアキラを見ると、彼は柔らかい雰囲気のまま静かにお茶を飲んでいる。

 

 その姿に心がすこし緩むのを感じ、軽く息を吐く。


 「急ですまない……」


 事をあまりにも急ぎ過ぎてしまったと、雪乃は詫びた。

 きっと自分は舞い上がっていたのだ。

 それを自覚した途端、恥ずかしさと後悔が胸の奥にじわりと広がる。

 

 あの母に男を会わせる、それも何の下準備もせずに。

 今更ながら、自らのその無謀な行いを(かえり)みる。


「きっと、アキラには……不快な思いをさせてしまうだろう」

 

 下を向いて、申し訳なさそうに低く呟く雪乃へ、アキラは微笑む。


「楽しみだよ、雪乃のお母さんならきっと素敵な人だろうね」


 そのあまりに予想外な言葉に、雪乃は思わず顔を上げる。

 そこには、心から待ち遠しそうに微笑んでいる彼がいた。

 

 前もって、母のことは説明しておいた。

 しかし、緊張や恐怖もなく、一貫してやわらかい雰囲気を絶やさないアキラ。

 

 雪乃はあらためて、この人を選んで良かったと頬が緩むのを感じた。


 屋敷内が慌ただしい雰囲気を醸し出す。

 そして、部屋の(ふすま)がゆっくりと開かれた。


 二人の目の前に現れたのは紫星の現当主『紫星 綾乃(しせい あやの)


 紫を基調とした薔薇模様の御召縮緬(おめしちりめん)

 細やかな意匠が施されたその着物は、彼女の立ち姿に完璧に馴染んでいた。

 

 瞳は、鋭すぎるほどに研ぎ澄まされている。

 鼻筋はすっと通り、紅を引いた口元が白い肌を一層際立たせていた。

 紫のアイシャドウが、紫がかった髪と調和し、静かな威圧感を放つ。

 長い髪は(かんざし)によって美しく結い上げられ、電灯の光を受けてしっとりとした艶を魅せていた。


 その姿は、誰もが美しいと評するだろう。

 だが、それ以上に、圧倒的な威厳。

 そして、目の前に立つ事すら烏滸(おこ)がましいと思わせる、支配的な恐怖がそこにあった。


 空気は彼女の意志に従い、場のすべてが沈黙を強いられる。

 その場にいる者は、誰もが無意識に背筋を伸ばし、呼吸を浅くする。

 

 ——紫星綾乃。

 

 その名が、ただの人間ではない何かとして、空間に刻まれていた。


 雪乃は息を呑む。

 

 この人が私の母。

 そして今からこの人に、私が選んだ相手を紹介するのだ。

 

 雪乃が、覚悟を決めて立とうとしたが、それより先にアキラが立ち上がる。


「はじめまして、一条アキラと申します」


 頭を下げ、礼を尽くした挨拶。

 その声は、柔らかくも芯があり、空気を丁寧に震わせた。


「——消えよ」

 

 綾乃の言葉は、それを一瞬で切り裂く。


 目も合わせずに告げられたその言葉は、命令だった。

 拒否ですらなく、その存在の否定を突き付けたのだ。


 雪乃は、おおよそ予想していた母の態度に、中腰のまま固まってしまう。


 綾乃の視線は、まだアキラに向いていない。

 空気は、彼を排除するように動いていた。


 それを受け止めたアキラは、雪乃の手を取り、立ち上がるのを助ける。

 そして手を繋いだまま、正直に告げる。


「雪乃さんと子供を作ります」


 直球だった。


 なんの飾り気もない言葉。

 人の本能を、むき出しにしたような。

 それはまるで、文明の皮を剥いだ原始の告白。


 繋いだ雪乃の手に力が入る。

 それは恥ずかしさからか、それともこれから起こる事への恐怖からか。


 ——座卓が割れた。

 なんの前触れもなく、真っ二つに。


 木片すら散らさず、それは床へ倒れこむ。

 

 だが、その異常事態よりも、綾乃自身への恐れが空間を支配していた。


「雪乃……この()れ者の言う言葉は本当か?」


 母の視線に貫かれ、雪乃の膝が笑い出す。


 立っていられないほどの圧力。

 それは、視線だけで肉体を崩すほどの力だった。


 綾乃の表情には、何の変化もない。

 口元は静かに閉じられ、瞳はただ雪乃を見つめている。


 だが、伝わってくる。

 今まで感じたことのないほどの怒気を。


 母は、基本的に自分へ怒りを向けた事はない。

 ただ、自分の意に逆らった人間へ向ける恐ろしい怒りは、今まで何度も見て来た。


 その悲惨な末路も。


 雪乃は、呼吸が浅くなるのを感じた。

 体が震える。

 膝が、勝手に力を失っていく。


 ——母が自分に怒っている。

 それも、今まで見て来たモノとは次元の違う怒り。


 紫星の女帝が、娘の行動に感情を揺らした。

 その揺れは静かに、確実に、雪乃の身体を(むしば)んでいた。


 『無理だ』


 雪乃は己の愚かさを知る。

 

 心が悲鳴を上げた。

 

 今すぐアキラの手を振り解き、何かの間違いだった、気の迷いだったと叫びたい。


 あの母に逆らうなど、正気の沙汰では無かった。

 全ての非を認めて、皆の様に泣いて慈悲を乞えば許して貰えるかもしれない。


 少し夢を見られた。


 自分の人生で、一生忘れられない宝物の様な記憶が出来たのだ。

 それを(かて)に生きても良いじゃないか。


 母に逆らう愚かさと比べれば、閉じた人生だろうが、今までと何も変わらないだけだ。

 ただ、静かに耐えれば良いだけなのだ。


 雪乃の心は、母を前にして折れていた。

 

 ——しかし、それをアキラの熱が否定する。


 手のひらから伝わる温かい体温が、この手を離すなと訴える。

 雪乃の心は折れた、しかし、魂が屈してくれない。


 この人を離したら自分の人生は、また閉じる。

 それは仕方のない事だと諦めが付く。


 しかし、この手を離したら、きっとアキラが悲しむ。


 それだけは——その事だけは許容出来なかった。


「母様……私は……彼の子を産みます」


 顔を蒼白にし、声は震え、膝は変わらず揺れている。


 しかし、言った。

 言い切った。


 生まれて初めて、母に逆らった。


「——そうか」


 雪乃の、命を賭けるほどの覚悟で告げた言葉。

 それを母は一言で返した。


 そして母は、雪乃から視線を外し、アキラの存在を初めて認識した様に見る。


「ならばそこの男、話がある」


 それは人を射殺す視線。

 

「覚悟があるなら、一人で私について来い」


 そう言って(きびす)を返すと部屋から出ていく。


「待って下さい!話なら二人で一緒にさせて下さい!」


 アキラが殺されるかもしれない。

 本気でそう思った雪乃は、振り絞るように叫ぶ。

 

 だが、雪乃の訴えは母の足を止める事が出来なかった。

 母に追い(すが)ろうとするのを、アキラが手を引きその場へ留めた。

 そして、頭を優しく撫でると、そのまま手を背に下ろし雪乃の体を抱きしめて告げる。


「ちょっと行ってくるね」


 足に力が入らない。

 

 母に逆らい気力を尽くした事と、アキラに抱きしめられたその甘い感覚のせいで、雪乃はもう立てなくなっていた。

 

 見送るしかない自分の不甲斐無さと歯痒さに、自然と涙が(こぼ)れる。


 これが今生(こんじょう)の別れになるかも知れない。

 そんな予感の中、雪乃はアキラの背中を見つめながら、自らの意識が遠くなるのを感じた——。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ