第3話
「!」
驚きにひゅっと息を呑み込んで、振り返る。そこにいたのは、芹と同じくらいの年齢の女の子だった。少年と少女の狭間を揺蕩うような顔立ちをしていて、その表情は読み取れない。絹糸のように細く長い髪の毛をポニーテールに結い、呼吸をする度に僅かに左右に揺れていた。ただその明るい亜麻色の光彩をした瞳に吸い込まれるように、釘づけにされてしまう。
「…その階段は腐っているから、危ないよ。」
凛とした、少し高いボーイソプラノのような声音だった。芹の手首を掴む手はひやりと冷たかった。体温は低い。
「どうしても上に行きたいのなら、こっちの階段を使うといい。」
少女は、おいで、と言って芹の手をやんわりと引いた。
「…うん…。」
芹は何故かその手を振りほどくことができず、そのまま彼女の後を手が引かれるままについていった。
平屋部分を抜けて、芹と少女は二階へと続く階段のあるエントランスへと歩みを進める。その迷いのない足取りに、鳥籠迷宮に対しての慣れを感じた。
「あの…、」
「うん?」
芹が戸惑いがちに少女に話しかける。
「随分、この廃墟の街に詳しそうだね。」
「ああ。私は鳥籠迷宮の片隅に住んでいるから。」
驚きを含み芹は瞳を丸くしながらも、だからこんなにも自然体でこの場に存在しているのかと納得した。
「鳥籠迷宮に人が住んでいるなんて知らなかった。勝手に入ってごめんね。」
「私も勝手に住み着いてるから、別に構わないよ。」
「…ええっと、それは法的には?」
少女は苦笑する。
「不法侵入?うーん。まあ、秘密にしておいて。」
話を聞くと、少女は鳥籠迷宮の外観からは見えない奥の部屋を勝手に間借りしているらしい。随分と行動力と度胸があるようだ。
カツン、カツン、と二人分の靴音が階段を昇る度に響く。階段の踊り場の窓ガラスは割れてグリーンカーテンの体を成した蔦が室内へと侵入していた。僅かに零れる木漏れ日は温かく、柔らかい。二人の存在に気が付いた野良猫が甲高い声で一声鳴くと、通路の際へと移動して再び寝転がった。
「ねえ。」
「んー?」
「あなたの名前を聞いていないんだけど、聞いてもいい?」
「ああ。私の名前?私は、一ノ宮 蔦江。君の名前も聞いていないよ。」
名前は?と蔦江は首を傾げながら、振り返る。
「私の名前は本郷 芹です。」
「本郷って言うんだ。何か格好いい。」
「そう?私はごつくて嫌いだな。だから、呼ぶなら芹って呼んで。」
蔦江はくくくと鳩のように笑った。その笑いの意味がわからず、芹は首を傾げた。
「ごめん。芹は女の子らしくて、かわいいね。」
「!」
いきなりのかわいいという誉に、芹は頬を瞬時に真っ赤に染める。それに気づかず前を向く蔦江は言葉を続ける。
「じゃあ、私のことも蔦江でいいよ。私の名字は微妙に長いし。」
「いいじゃん。貴族っぽくて。」
「そーかー?。」
二人はまるで長年の友人のようにクスクスと笑いあいながら歩き、階段の最後の一段を昇った。二階の廊下は草木すら生えてはいないものの、窓ガラスの隙間から潜り込んだ枯れ葉が散乱していた。カサコソと音を立て、僅かに漏れる風に揺れた。
「芹はどうして、こんな所へ来たの?女の子ならこういうところ、怖いとか思わなかった?」
「怖い?何故。」
「薄暗いし、幽霊とかおばけとか出そうじゃん。」
「私、霊感は無いの。」
「じゃあ不審者が出たらどうすんの。」
「それって、蔦江のこと?」
芹の問いを聞いて、蔦江は苦笑を零す。
「否定はしない。」
「大丈夫だよ。逃げ足は速いから。それに…、」
「それに?」
「蔦江になら、勝てそう。」
「そう!?」
蔦江の手足は長く、細い体躯をしていた。とても怪力の持ち主には見えない。
「ひどいなー。せっかくとっておきの部屋に連れて行ってあげようと思っていたのに。」
わざとらしく口を尖らせて、蔦江はいじけて見せた。芹はその様子に、うーん、と首を捻る。
「とっておきって?」
「とっておきはとっておきだよ。特別な部屋。」
「連れてってくれるの?」
「どうしようかな。」
蔦江はくすりと笑って、横目で芹をちらりと見た。
「蔦江様、すみませんでした。ぜひ連れて行ってください。」
「合格です。いいよ、こっち。」
ポニーテールをくるりと翻して、蔦江は芹の手をきゅっと強く引いた。鳥籠迷宮のくすんだ窓から遠く、都心の高層ビル群が見える。キラキラと銀色に輝いて太陽の光が反射している。距離はあるものの、こうして窺えるくらいの位置にあるのにこんなにも違う世界が存在しているのかと不思議に思う。
かたや、人が集まり活気付き生活の拠点になっている。こなた、人に見捨てられ朽ちて崩れるのを待っている。真逆の価値観に戸惑いすら覚えた。そんな寂しい鳥籠迷宮に蔦江は何故、一人でいるのだろう。