第2話
始発のまだ乗客の少ない電車内で本郷 芹は座席の深くに座り、背もたれに背を預けていた。タタン、タタン、と線路を辿る電車の振動が心地よく身体の芯に響く。眠気は無く、只々、しんとして凪いだ海のような心持だった。
「―…。」
芹の黒く柔らかい髪の毛が、陽光に透けてアンバーブラウンに輝いていた。重く見られがちな色彩でも、この時間、この光に当てられた髪色は自分じゃないみたいで好きだった。
やがてぐるりと一周する路線を廻って、時間が刻々と過ぎ去っていく。段々増えていく乗客の数に嫌気がさして、芹は目的地でも何でもない駅で降りてみることにした。黒のセーラー服の襟を翻し、コツ、とローファーが音を立て駅のプラットホームに降り立つ。乗降数が少ない駅だったらしく、芹の他に下車したのは満員電車の内のほんの数人だった。空気が抜けるような音を吐いて扉が閉まり、芹を置いて電車は再び線路を辿って行った。
ICカードを駅の改札口にかざして、外に出る。遠くを見れば、都心のビル群が見えた。長い間、電車に揺られていたからずいぶん遠くまで来た気がしたが実際は同じ場所を回っていただけで、距離としては全く遠くではない。まるでハムスターの滑車のようだと思う。
「ここはどこなんだろ。」
芹は携帯端末の画面をタップして、地図を引っ張り出す。画面には人工衛星から送られた自分の現在地が示される。駅を基準に周囲を見渡せば、東の位置に人々から見捨てられた廃墟の街、鳥籠迷宮が記されていた。人間にはすでに見向きすらされない街が、機械を通せばまだ認知されているのかと若干驚く。
そういえば、まだ鳥籠迷宮の廃墟には足を踏み入れたことがなかったなと思いついた。芹は廃墟の探索が好きだった。いつの頃だろう。かくれんぼをしていて、辿り着いた廃墟に不思議な安らぎを覚えたのは。
その廃墟は平屋の家で、天井が抜けて所々から光が差していた。窓ガラスはくすんで蔦が絡み、住居内に一歩踏みいると不思議な静寂がそこを統べっている。かつて人が住んでいた気配が、粗んだ室内と荒んだ家裁道具によって相殺されていた。
芹はその廃墟が取り壊されるまで、幾度となく足を運んだ。中学生になって行動範囲が広がると、廃墟好きに拍車がかかった。ネットで調べた廃墟スポットに赴いては一日を過ごすことが増えた。廃墟の街、鳥籠迷宮に関しては完璧に灯台下暗しだった。
芹は携帯端末の地図情報アプリをそのままに、鳥籠迷宮までの道のりを辿ることにした。
鳥籠迷宮に近づくにつれて、すれ違う人々が段々少なくなってきた。まだ午前の明るい時間帯なのに、ついには人っ子一人とも会わなくなった。それに反比例するかのように増えてきたのは、野良猫の数だった。猫たちは芹の姿を見ても、自らの陣地とばかりに逃げることもなくじっと見つめてくるばかり。時折、幼い子猫たちが飛び出してきて母猫に怒られて、首根っこを咥えられて寝床に連れ帰られていた。
やがて、大きな広葉樹の木の角を曲がると鳥籠迷宮の全貌が見えてきた。
蔦の絡まる廃屋、草木が茂る工場地帯。割れたステンドガラスに、置いていかれたぬいぐるみ。周囲は金網で覆われてはいるが、簡単に乗り越えられそうだ。
「よいしょ…っと。」
スカートの裾をひらりと翻しながら、芹は身軽に身体を持ち上げて足を廃墟の街へと向かって着地する。最初に放っておいたかばんを手にして、廃墟の内部へと向かって踏み入れたのだった。
ざり、と地面とガラス片を踏みしめながら、芹は手始めに一番手前の建物の扉に手を掛けた。鉄製の扉はギッと軋んで、重く開かれる。そっと中を伺うと、穴の開いたトタン屋根の天井から幾筋もの光が差し、草が生え、そして木が茂っていた。隅には野良猫が二匹、積まれた新聞紙の上でくつろいでいる。芹は室内の中央に歩を進めた。一歩一歩、地面を踏むたびにふかっとした草の感触を靴越しに感じられた。一等、光が差す地帯まで来ると立ち止り、頭上を見上げてみた。
白い真昼の光が沁みて思わず目を細める。手で日陰を作り、窺える空を見上げると青一色が細く長い飛行機雲に真っ二つにされていた。数秒遅れて、低く唸るような音が鼓膜を震わせた。
どこにも行けない自分は、ずっと地面でこの光景を眺めているのだろう。
思わず伸ばした手は呆気なく空を切り、何にも触れることは無かった。
部屋には奥へと続く廊下があり、芹は更に奥へと進むことにした。蜘蛛の巣をくぐり、埃を払う。普通の女の子ならこの時点ですでに探索を諦めるだろう道筋も、芹にとっては只々楽しい道だった。自然、鼻歌を口ずさんでいた。以前流行ったドラマの主題歌で、確かラブソングだったと思う。真夏の季節、日常に光が満ちる高校生たちをうたった青春真っ盛りを背景とした歌。それは年代的にも芹に当てはまるが、不思議と共感することは無かった。現実はドラマのような展開にならないことを知っているからだろうか。
錆びれた階段を見つけて、二階に昇れることを知った。好奇心に駆られたまま、芹は手すりに手を置く。そして足を一段踏み込もうとすると、不意にその細い手首を掴まれた。