第0話「風のない丘で」
世界を救った英雄カイル――その名の裏に、どんな時間があったのか。
これは、まだ何者でもなかった少年が“冒険者”になるまでの物語。
戦いも、信頼も、誓いも知らなかった12歳のカイル=スローンが、最初の一歩を踏み出す。
風のないあの日、彼はただ、小さな丘で空を見上げていた。
乾いた風が吹かない朝だった。
故郷〈クレイフィールド村〉のはずれ、小高い丘の上で、カイル=スローンは寝転んでいた。
「……はぁ、つまんねぇな」
12歳。
体だけは元気だが、村の大人たちからは「危なっかしい」と煙たがられる存在。
父は早くに亡くなり、母は雑貨屋を一人で切り盛りしていた。
手伝いはする。でもそれ以上に、村の外にある“世界”に、強く惹かれていた。
「冒険者かぁ……なれるもんなのかね、俺みたいなやつが」
口にしたその言葉は、誰かに届くわけでもなかった。
だが――そのとき、背後で枝を踏む音がした。
「おい、カイル。またサボってんのか」
現れたのは、村の警備をしている青年、バルクだった。
年の離れた兄のような存在で、カイルに剣の基本を教えてくれた人物でもある。
「いや、別にサボってねぇし。ただ考えてただけだし」
「ふーん。考えるのも大事だが、筋肉は裏切らないぞ?」
バルクはそう言って、持ってきた木剣をカイルの足元に投げた。
「今日も稽古付き合ってやるよ。なんせ将来の大英雄様だもんな」
「……言った覚えねぇけど」
カイルは渋々立ち上がる。
だが心のどこかで、バルクとの稽古が嫌いじゃない自分を知っていた。
風のない丘に、木剣のぶつかり合う音が響く。
その音はまだ、誰にも届かないほど小さく、未熟だった。
けれど、それこそが始まりだった。
いつか世界を変える――その一歩手前の、何でもない日常の一コマ。
「英雄」なんて呼ばれるカイルにも、当然ながら始まりがあります。
このプロローグは、そんな彼の“普通”だった頃の姿を描くものです。
風が吹かない朝。何も起きなかった、けれど確かに始まっていた日。
この少年がどんな出会いを経て、どんな選択をし、どんな信念を得ていくのか。
それを一つ一つ、これから描いていきます。
次回、第1話「朝の5マイル走」にて、カイルの地味で泥臭い修行生活が始まります。
彼が「戦える身体」を手に入れるまで、しばらくお付き合いください。