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07話

 蝉の鳴き声が遠ざかり、代わりに風鈴の音が部屋の奥に揺れていた。


 夏休みが始まって数日。遼は一日の大半を家で過ごしていた。文庫本を片手に読みふける時間。けれども、ページの内容はほとんど頭に入ってこなかった。


 ──澪、元気にしてるだろうか。


 そんな言葉が、読点のたびに脳裏に浮かんでくる。


 自分から連絡を取ったことはなかった。どこかで、「迷惑かもしれない」と考えてしまう臆病さがあった。


 それでも、彼女のことが頭から離れなかった。


 そんなある日、遼のスマートフォンが震えた。


 表示された名前に、ほんの少しだけ息を呑んだ。


《澪》


 ──こんなふうに、彼女から連絡が来たのは、初めてかもしれない。


「文芸部のとこ、まだ空いてたら行ってもいい?」


 それだけの短いメッセージだった。


 だけど、遼の心は一気に熱を帯びた。


 * * *


 その日の午後、文芸部室のドアが静かに開かれた。


 ノックの音はなかった。だが、その静けさが、かえって彼女の存在を際立たせていた。


「……こんにちは」


「澪。久しぶり」


 澪は、少し日焼けした腕を見せながら、席に座った。


「部屋、変わってないね」


「うん。誰も使わないから、僕が守ってるようなものだよ」


 ふたりの間に流れる空気は、心地よい静けさを保っていた。


 けれど、澪の瞳の奥には、何か別のものが見えていた。


 それは、今ここにいるはずなのに、どこか遠くを見ているような光だった。


「最近……おばあちゃんと電話したの」


 不意に澪がそう言った。


「百合江さんと?」


「うん。急にね、元気にしてる?ってかかってきて。……すごく嬉しかった」


 澪は微笑んだ。けれど、それは嬉しいだけの笑顔じゃなかった。


 まるで、その嬉しさが、自分の生活にそぐわないもののように感じているかのような――そんな、痛みを含んだ表情だった。


「家のこと……ちょっと話したんだ。そしたら、逃げたいなら逃げてもいいって言われた」


 遼の手が、思わず机の下でぎゅっと拳を握った。


 だが、何も言えなかった。


 なぜなら、その“逃げたい”が、どこまで本気なのか、彼自身も計りかねていたからだ。


「でも、逃げてもいいって、簡単に言えないよね。学校もあるし、生活も……。家族だって、いろんな事情があるし」


 そう言って、澪は俯いた。


 ──“家族”という言葉。


 それは、彼女の口から出るたびに、どこか歪んで聞こえる。


「澪……無理は、してない?」


「……ううん。大丈夫」


 その大丈夫は、どれほどの重みを含んでいるのか。どれほど、自分自身に言い聞かせた言葉なのか。遼には、わからなかった。けれど、信じたくなかった。


 その言葉の裏に、彼女の苦しみがあることを。


 * * *


 その日の夜、澪は自室のベッドに座っていた。


 カーテンの隙間から、月が差し込んでいる。


 部屋には静けさが満ちていたが、その分だけ、家全体の空気の重さが際立っていた。


 廊下の先では、父親の低い声が響いていた。テレビの音がうるさいと苛立ち、母親に何かを詰めている。


 母の返事は、ほとんど聞こえなかった。ただ、何も言わない沈黙が、部屋の隅にまで染み渡ってくる。


 澪は、自分の手の甲をぎゅっと握った。震えを止めたくて、指に力を込めた。けれど、その感覚さえも、どこか他人事のようだった。


 ──私は、このまま、ここにいちゃいけない。


 その思いは、何度も何度も頭を巡った。


 おばあちゃんの言葉が、心の奥に残っている。


「澪、あんたが一番つらいとき、誰も味方になってくれんかったやろ。でもな、私は味方や。今も昔も、ずっとやで」


 涙が頬を伝った。


 声は出なかった。ただ、静かに溢れるだけだった。


 ──あの場所に、帰りたい。

 ──でも、それは、もう“私”じゃない気がする。


 スケッチブックを開いた。ページの上には、どこかで見た風景があった。


 文芸部室の窓。そこから見える木洩れ日。


 遼が言っていた、「詩の続きを見てみたい」と言った、あの光景。


 ページの端に、彼の言葉を書き写していた。


「青い風が、誰かの名前を連れてきた

 影ににじんだ、午後の木洩れ日」


 涙が、その文字の上に滲んだ。


 その瞬間、胸の奥で何かが小さく割れる音がした。


 ──もし、このまま消えたら、

 ──遼くんは、私のこと……忘れてくれるかな。


 そう考えた自分に、ぞっとする。


 だけど、その考えが、どこかで救いのようにも思えた。


「私は……ここにいない方が、いいのかもしれない」


 澪は、そっとカーテンを閉めた。


 夜の静けさが、永遠のように感じられた。

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