06話
セミの鳴き声が、校舎の窓を揺らすほどの熱を連れてくる。
あの夏のことを思い出すと、どうしても音が先に蘇る。耳の奥に貼りついたまま離れない、焼けつくような記憶の粒子。
遼がその日、何度目かのため息をついたのは、昼休みの終わりが近づいたころだった。
文芸部の部室で、一人机に向かっていた彼は、開いたままのノートに視線を落としたまま、鉛筆を転がしていた。
書こうとしていた詩は、三行で止まっている。
「青い風が、誰かの名前を連れてきた」
その続きを書けずに、指が動かなかった。
「遼くん、まだいる?」
やわらかい声が、部屋の隅から聞こえてきた。
振り返ると、そこにいたのは澪だった。
白いブラウスの袖を少しだけまくり、スカートの裾を指でつまむようにして立っている。うっすらと汗をにじませた額にかかる前髪が、夏の陽に透けて揺れていた。
「うん。……っていうか、毎回来るよね、ここ」
遼がそう言って笑うと、澪は少しだけ眉を下げて笑った。
「だって、教室、うるさいから。文芸部の空気、落ち着くもん」
彼女は誰よりも静かな空気が似合っていた。
だけど、それは決して「静かでいたい」からじゃなくて──「静かでいなきゃいけない」人だった。
そんなふうに感じるようになったのは、遼が彼女を「好きだ」と思うようになったころからだった。
「ね、これ……今日描いてきたやつ」
そう言って、澪がカバンから取り出したのは、小さなスケッチブックだった。
ページを開くと、そこには公園の風景があった。
「昨日の放課後、ひとりで行ったの」
「……すごいね、これ。こんな細かく木の陰まで描けるなんて」
「ううん。影は、目じゃなくて、覚えてる感じで描いたの。……こういうの、上手く言えないけど」
その言葉に、遼の胸が少しだけ熱を帯びる。
覚えてる感じ。
それは彼が詩を書こうとするときに、いつも探しているものと同じだった。
気づけば、ノートの端にこう書き足していた。
「青い風が、誰かの名前を連れてきた
影ににじんだ、午後の木洩れ日」
「……これ、さっき書いてた詩の続き?」
「……うん。君の絵を見て、浮かんだ」
言ってから、少し照れくさくなって、遼は目をそらした。
だけど澪は、それ以上は何も言わなかった。ただ、スケッチブックを閉じて、笑った。
その笑顔は、どこか心細さをたたえた光のようで。まるで、自分の存在が誰かに気づかれることを恐れながら、それでも誰かに見つけてほしいと願っているようだった。
──どうして、もっと深く踏み込めなかったんだろう。
──あのとき、彼女の目の奥の揺らぎに、もっと気づいていれば。
その悔いが、遼の中には今でも確かに残っている。
* * *
夏休みが始まる少し前のある日、下校中のことだった。
二人で並んで歩く道は、蝉の鳴き声とアスファルトの照り返しが眩しかった。
「ね、夏休み、どこか行く予定ある?」
澪がぽつりと訊いた。
「いや、特に。部活の合宿もないし、たぶん家で本読んで終わる」
「……そっか。うん、遼くんらしい」
「そっちは? 家族で旅行とか」
少しだけ、彼女の顔が陰ったように見えた。
「ううん。……たぶん、家にいる」
「そっか」
それ以上、何も聞けなかった。
──なぜ、あのとき彼女の「たぶん」の意味を、考えようとしなかったのか。
歩きながら、澪はふと空を見上げて言った。
「ねえ、遼くん。……好きって、どういう気持ちだと思う?」
遼は、一瞬、心臓が止まったような気がした。
唐突な問い。でも、それは冗談じゃなかった。彼女の横顔が、あまりに真剣だったから。
「……うまく言えないけど。たぶん、誰かのことをずっと考えてるってこと、かな」
そう答えると、澪は目を伏せた。
そして、小さく「……そうなんだ」とだけ呟いた。
それが、何を意味していたのか、当時の遼にはわからなかった。
ただ、彼女が何かを閉じ込めるように言葉を飲み込んだことだけは、はっきりと覚えている。
──きっと、あのときにはもう、澪は決めていたのかもしれない。
──この夏を、最後にするということを。