陽菜の手帳
──その言葉は、今日も、また消された。
手帳の罫線の上に走ったペンの跡。「好きだよ、遼くん」という七文字を、陽菜は小さなため息とともに消しゴムでなぞる。文字が薄れていくたび、胸の奥に灯ったものまで消えてしまいそうだった。
彼女の手帳は、まるで「言えなかった気持ち」の墓標のようだ。毎日のように書いては消し、ページの隅にだけ、かすかな感情の破片だけが残されている。
──どうして、こんなにも簡単な言葉が言えないんだろう。
放課後の図書館。遼の隣に座る時間が、いつしか陽菜の一番好きな時間になっていた。彼はいつも静かで、時折ふと息を止めたように詩集のページをめくる。その横顔に触れたくて、近づこうとするたびに、自分の足音がやけに大きく聞こえた。
「……陽菜って、ほんと律儀だよな。ちゃんと毎日手帳つけててさ」
ある日、悠人がそう言って笑った。
「うん。忘れっぽいからってのもあるけど……こうやって書くと、自分の気持ちがちゃんと“あった”って、証明になる気がして」
「証明、か」
「うん。……自分が、ちゃんと誰かを好きだったって、言葉にすれば、たとえ届かなくても、ちゃんと自分のものになるでしょ」
遼の名前を直接出すことはなかった。けれど、悠人は気づいていたのだろう。少しだけ寂しそうに頷いて、それ以上は何も言わなかった。
──澪さん。
その名前を陽菜は一度も口にしたことがなかった。遼の瞳が、遠くの記憶に焦点を合わせていることには、初めから気づいていた。どれだけ話しかけても、彼の心は「いない誰か」を見ている。それでも、隣にいたいと思ってしまう自分が、時折嫌いになりそうだった。
「ねえ、遼くん。恋って、記憶の中にあるものだと思う?」
講義のあと、ふとそんな問いを投げたとき、遼は少しだけ目を見開いた。
「……たぶん、そうだと思う。少なくとも、俺にとっては」
そのとき、陽菜はようやく悟ったのだ。
──私は、彼にとって“記憶”じゃない。
遼の言葉には、すでに答えがある。だから、勝負の土俵にすら立てていないのだと。自分は「今、ここにいる」存在であって、彼にとっての「物語」ではない。陽菜の優しさも、笑顔も、触れた手の温度も──遼の心には、きっと届いていない。
けれど、それでも。
「それでも、好きでいるって決めたんだよ」
その夜、手帳を開きながら陽菜は呟いた。
ページには、何度も消した跡が残っている。にじんだ跡が、まるで未完成な詩のように並んでいた。
そして、詩を読んだあの日──。
遼から手渡された一枚の紙。彼の手から生まれた“喪失”の詩。その中に陽菜の名前はなかった。でも、彼の心がまだ何かを大切にしていることだけは、痛いほど伝わってきた。
「優しいね、この詩」
そう言った自分の声が、少しだけ震えていたのを覚えている。
──たとえ、私がその詩にいなくても。
──たとえ、あの人の中に別の誰かがいても。
陽菜は、心のどこかで確信していた。
恋は、記憶のためにあるんじゃない。
未来を見せてくれるものでもある。
でも──たとえ未来に自分の姿がなくても、その人の「今」に寄り添えるなら、それでいいと思える恋もある。
手帳の最後のページに、陽菜はもう一度だけ書いた。
「好きだよ、遼くん」
今度は、消さなかった。
その言葉が、ようやく自分自身のために書けた気がした。
──私は、まだ諦めきれない。
でも、きっとそれでいい。
淡くて、儚くて、でも確かにここにある気持ち。
それが、私の恋だった。