05話
夜の静けさの中で、ペンが走る音だけが遼の部屋に響いていた。
幾度となく書き直されたノートのページ。その一枚に、ようやく彼はそれを書き上げた。
喪失の音が、言葉になった。
──その詩に題はなかった。ただ、一行目にこう綴られていた。
君の声が、今も耳の奥で鳴っている
夏の風に混じって、名前を呼ぶ気がした
振り向いても、そこに君はいなくて
それでも僕は、歩みを止められずにいた
あのとき伝えたかった言葉は
「好き」でも「さようなら」でもなかった
ただ「忘れないで」が言いたかった
君の不在を、僕は今日も覚えている
だけど、それは悲しみではなくて
祈りのようなものだった
どうか、どこかで
君が笑っていますように
ペンを置いた遼は、深く息を吐いた。書き終えた直後の空白は、まるで自分の一部が少しだけ軽くなったような──そんな感覚を与えてくれた。
それでも、その詩が完成だとは思っていない。
心の奥に澪の存在が残っている限り、どんな言葉を選んでも、それは永遠に途中なのだ。
***
「……これ、遼くんが書いたの?」
翌日。大学の中庭のベンチ。陽射しは優しく、風は心地よかった。
遼は、ノートの一枚を切り取り、陽菜に手渡していた。
彼女はそれを両手で大切に受け取り、慎重に目を通す。
隣には悠人もいた。彼は少しだけ距離をとって、その様子を見守っている。
陽菜の目が、一行ごとに揺れていた。頬を伝うものはなかったが、感情の波が胸元に広がっているのが、遼にも伝わった。
「……優しいね、この詩」
陽菜の声は、震えていた。
「優しいけど、痛い。……ずっと、こんなふうに想ってたんだね」
遼は何も答えない。ただ、小さく頷いた。
悠人が口を開いたのは、その直後だった。
「これ、提出するのか?」
「……わからない。誰かに読まれるのが、少し怖い」
「でもさ、詩ってそういうもんだろ。自分の中から削り出したものを、誰かに差し出す。それが、伝わるかどうかは別にして」
「……そうだな」
遼の指先は、ほんのわずかに震えていた。
陽菜は詩を胸に抱くようにして、言葉を継いだ。
「私、読ませてもらえて……嬉しかった。ありがとう」
その言葉は、何よりも温かく、何よりも切なかった。
だって彼女は気づいている。
──その詩の中に、自分はいないことを。
けれど、それでも構わなかった。遼の心の祈りに触れられたことが、陽菜にとっては何よりの証だったから。
「……陽菜」
遼が口を開く。その名を、初めて真正面から呼んだ。
「ありがとう。俺、自分の想いを……少しだけ、言葉にできた気がする」
「……うん」
陽菜は微笑んだ。ほんの少しだけ、泣きそうな顔で。
そしてその瞬間、彼らの背後から風が吹いた。
木々の間をすり抜けるような、夏の風。蝉の声が遠くに聞こえる。
──まるで、記憶の中のあの日に、風が重なったようだった。
***
それから数日後。
講義が終わり、提出された自由詩の中に、ひとつだけ無題のものがあった。
白い紙に、黒のインクで丁寧に綴られたそれを見て、教授はゆっくりと頷いた。
「……これは、良い詩だね」
教授が声に出して読んだわけではない。ただ、静かに紙をめくり、評価の欄にそっと赤い文字でひとつ、丸をつける。
その詩が、誰のために書かれたものか──教授には知る由もない。
けれど、その“喪失の音”は、確かに誰かの胸に、静かに届いていた。