04話
「では、次回の講義までに各自、恋をテーマにした自由詩を一本、書いてきてください」
教授の柔らかな声が、教室の後方まで響いた。空調の風がカーテンを揺らし、夏の陽射しが木漏れ日のように差し込んでいる。
文学概論の講義が終わると、周囲からは一斉にため息とざわめきが漏れた。
「恋って、抽象的すぎるんだよなー」
「書けるやつ、リア充だけじゃない?」
そんな声の合間で、遼はノートを閉じ、静かに立ち上がった。机に手を添えたまま、わずかに顔を伏せる。
──恋。
それは、彼にとって「失われたもの」の代名詞だった。
「お前、書けそう?」
隣の席に座っていた悠人が、横目で遼を覗き込むようにして言った。
「……わからない。言葉にできる気が、あまりしない」
「だろうな。お前、そういうの感覚で抱えてるタイプだし」
遼は何も言わずに小さく笑った。それは、感情の起伏というよりも、ただの反射のようなものだった。
講義室を出ると、廊下には学生たちの雑談があふれていた。けれど、遼の耳にはどれも遠くの波音のようにしか届かない。
階段を降りる途中、後ろから駆け足の気配が近づいてくる。
「遼くん!」
振り返ると、陽菜がそこにいた。明るい笑顔を浮かべて、小さなノートを抱えている。
「さっきの課題、ちょっと面白そうじゃなかった?」
「……そうか?」
「うん、私、詩とか好きだから。テーマが恋って聞いて、なんかちょっとドキドキしちゃって」
陽菜は少し照れたように笑いながら、歩幅を合わせてきた。だが、遼はその距離に無自覚だった。
「遼くんは、どんな詩を書くの?」
「まだ、何も……浮かんでない」
「じゃあ、少しだけヒントあげようか?」
冗談めかした口調に、遼はかすかに目を細めた。
「……ヒント?」
「うん。恋って、未来じゃなくて記憶の中にあるものだと思うって、どこかで聞いたの」
陽菜の言葉に、遼の足が一瞬止まる。
「……記憶の中、か」
その響きに、澪の面影が重なる。確かに彼の恋は、今もあの夏の中に置き去りにされたままだ。
***
夜、自室に戻った遼は机に向かっていた。
机の上は散らかっていて、白紙のノートとペンの他にも、様々な詩集や物語集、大学の帰りにもらった絵画展のチラシなどでごちゃごちゃしている。窓の外では、街灯がまばらに揺れており、カーテンの隙間から、夜風がそっと吹き込んだ。
遼は深く息を吸い、そしてゆっくりとペンを動かす。
──恋とは、音だと思った。
言葉にできない、けれど心の奥で確かに響くもの。
触れようとすれば逃げ、水面に指を差し入れたときのように、かたちが崩れていく。
でも確かにそこにあった。確かに、“いた”。
彼女は、澪は、あの夏の音だった。
笑い声。蝉の鳴き声。風に揺れる髪。手を繋がなかった指先の温度。
すべてが、今も心の奥で、遺響のように鳴り続けている。
「……書けないな」
呟いた声は、夜の空気に溶けていった。
恋を“現在”として書くには、遼にはまだ早すぎた。彼の恋は、いまだ“喪失”の中に沈んでいたから。
***
翌朝の講義室。提出期限まであと三日。
悠人が遼の隣に座りながら、ぼそっと呟いた。
「詩、進んでるか?」
「……手はつけた。でも、たぶんこれじゃだめだ」
「そっか。俺も、恋とか言われてもピンとこねえしな」
陽菜も遅れて教室に入り、遼の少し後ろの席に腰掛けた。その手には、小さなメモ帳が握られている。
──好きだよ、遼くん。
そんな言葉を、陽菜は何度も書いて、そして消している。
だけど、まだ一度も伝えてはいない。
だから、彼女もまた、言葉にならない“詩”を胸に抱えていた。
***
講義終わり、教室を出た遼は、階段の途中でふと立ち止まった。
背後からは陽菜の声が追ってくる。
「遼くん、あの……少し、いいかな?」
「……どうした?」
「恋の詩、できたら……読ませてくれる?」
その問いに、遼は一瞬だけ戸惑いの色を浮かべた。
だが、陽菜の瞳は真剣だった。冗談でも気まぐれでもなく、純粋に彼の言葉を知りたいと思っている。
「……わかった。できたら、渡すよ」
「うん、ありがとう!」
陽菜は嬉しそうに頷いた。けれど、それはほんのわずかな“前進”でしかなかった。
遼の心が今なお澪を想い、詩にすらできないまま揺れている限り、陽菜の想いは静かなまま波紋を広げるだけだった。
──詩とは、心の声。
けれど、心の声を言葉にするのは、いつだっていちばん難しい。