03話
「おーい、遼くーん!」
大学構内、第二棟のカフェテリアの前。開け放たれた窓から蝉の声が入り込み、夏の日差しが白く反射していた。
遼が振り返ると、そこには明るい笑顔の女子学生が立っていた。肩につく程度の栗色の髪、白いブラウスに薄いベージュのカーディガンを羽織り、少し小柄な身体をぱたぱたと動かして駆け寄ってくる。
「……陽菜」
「なにそのテンション低めな反応。せっかくアイス奢ってあげようかと思ったのに」
陽菜──水原陽菜は、遼と同じ文学部の同級生だ。気さくで誰とでも話せるタイプの彼女は、キャンパス内でも友人が多い。それでも、彼女が一番よく話しかけに行く相手は、遼だった。
「今日は暑いし、水分補給しなきゃ。ね?」
「……ああ、ありがとう」
受け取ったアイスコーヒーの紙カップには、彼女の手書きと思しきハートマークが小さく描かれていた。遼はそれに気づかないふりをして、カップの反対側を手で覆う。
「ねえ、今日のゼミ、遼くんさりげなく発言してたでしょ? あの小説の解釈、私すごく好きだった」
「そうか……俺は、ただ思ったことを言っただけだけど」
「そういうところがいいの。なんていうか、ちゃんと考えてるって感じ」
陽菜の声には、少しだけ高揚した響きがあった。けれど遼はそれに反応せず、アイスコーヒーをひとくち飲んで目を逸らした。
──どうして、気づかないかなぁ。
陽菜は心の中で小さくため息をついた。
何度目だろう、こうして話しかけて、さり気なく距離を縮めようとして──それでも、彼の瞳には誰の姿も映っていない気がしてしまうのは。
「ねえ、遼くんって、放課後はいつも図書館?」
「……うん。なんとなく、静かな場所が落ち着くんだ」
「そっか。じゃあ、今度一緒に行ってもいい?」
ふいにそう切り出した陽菜に、遼は少しだけ驚いたような顔を向けた。だが、それは一瞬だけだった。
「……別に、いいけど。俺、たぶん喋らないよ」
「それでいいよ。隣にいるだけでいいって思ってるし」
その言葉に、遼は小さく頷いた。ただ、それだけだった。
(……やっぱり、伝わってないな)
陽菜は思う。彼の心がどこにも向いていないのではなく、たった一人の、もういない“誰か”を見つめ続けているのだと。
大学の中庭では、蝉の声がさらに熱を帯びていた。
***
図書館の静寂の中、三人は並んで座っていた。
悠人はノートパソコンを叩き、陽菜は参考書にマーカーを引いている。遼は詩集をめくりながら、ときおり窓の外に目をやっていた。
「……ねえ、遼くん」
静かに陽菜が声をかける。図書館の雰囲気に合わせた、控えめな声色。
「さっきの詩、なんていうタイトル?」
「『残響』。詩人は、白石緋咲って人」
「……へえ。『喪失の中にこそ、音は響く』……か。なんか、今日の遼くんぽいかも」
「そうか?」
「うん。なんとなく」
陽菜は笑った。けれど、その目はどこか寂しげだった。
***
「陽菜って、さ」
図書館を出たあと、帰り道で悠人が遼にぽつりと口を開いた。
「お前のこと、気にしてるよな」
「……そうか?」
「絶対そうだって。目とか、声とか、距離のとり方とか……ああいうの、男って気づかないけど、俺はわかるほうだと思ってる」
遼は無言で歩き続けた。否定もしないし、肯定もしない。
「気づいてないふりしてんのか、それとも本当に気づいてないのか……まあ、どっちでもいいけどさ」
「……俺は、誰かに好かれるような人間じゃないよ」
「それ、自分で決めつけんなよ。……けどまあ、お前が引きずってるの、例の女の子のことなんだろ?」
悠人の言葉に、遼は一瞬だけ足を止める。
「……澪」
その名を、小さく口にした。
陽菜の笑顔も、気配も、優しさも──そのすべてが、遼には届かない。
彼の心は、五年前の夏で止まったままだ。
***
陽菜は一人、大学の中庭に戻っていた。
夕暮れが校舎の窓を茜色に染めていく中、ベンチに腰掛けた彼女は、手帳を開き、遼の名前を書いては消し、また書いては消していた。
──ほんとは、もっと普通に笑いたかっただけなのに。
──ほんとは、ただ名前を呼んで、振り向いてほしかっただけなのに。
誰にも言えない想いが、心の中でゆっくりと沈んでいく。
けれど、それでも陽菜は思うのだ。
遼が振り向かない理由が、誰かを本気で愛したことがあるからなら──それは、決して嫌いになれない理由だ、と。
だからこそ、彼女はそっと微笑んで、手帳を閉じた。
──好きだよ、遼くん。
たとえ、この想いが届かなくても。