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きみが消えた夏、僕はようやく恋を知った  作者: 早乙女ゆうき
プロローグ 《喪失の音》
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01話

 蝉の鳴き声が、鼓膜の奥でひび割れていく。


 どこかで誰かが笑っていた。子どもたちだろうか。あるいは、犬を連れていた若い母親か。夏の夕暮れ、茜色の雲が川面に映る公園で、望月遼はひとり、ベンチに座っていた。


 風が通り過ぎるたび、シャツの裾が揺れる。そのたびに思い出すのは、隣にいたはずの少女のことだ。


「ねえ、遼くんはさ、将来どんな本を書きたいの?」


 笑いながらそう訊ねたのは、五年前の今日だった。まだ高校二年の夏。受験も将来も、どこか遠くの話だったあの頃。だがその夏は、彼にとって“終わり”の始まりでもあった。


「あのとき、どうして言えなかったんだろうな」


 遼は自分の掌を見つめる。何度も、何度も繰り返した問い。なのに、いまだに答えは出せない。澪が笑ったときの声。目を細めてこちらを見ていたまなざし。すべてが、昨日のことのように鮮明で、だからこそ胸が締め付けられる。


 遼は眼鏡のフレームを指で押し上げ、静かに目を閉じた。


 その日、澪は何も言わずに消えた。まるで、夜の闇に溶けるように。


 最後に交わした言葉すら覚えていない。それほどに、いつも通りの一日だった。それが、遼にとっての呪いだった。


「いつか、言おうと思ってたんだ。ずっと……好きだったって」


 けれど、その「いつか」は、二度と訪れなかった。


 東京の大学に進学してから三年。遼は文学部に籍を置き、詩や物語の講義を淡々と受けている。講義ノートは整然としているし、成績も悪くない。だが、心はずっと空白のままだ。


 朝起きて、電車に揺られて、学食で食事をし、帰宅して眠る。


 そんな毎日に、喜びも悲しみもない。感情の起伏は、読んでいる小説の中だけ。自分自身の世界には、何も起こらない。いや、起こそうとしていない──のかもしれない。


「お前さ、最近ほんとに機械みたいになってるぞ」


 そう言ったのは、友人の南原悠人だった。明るくて、社交的で、いつも誰かと笑い合っている男だ。遼とは性格も趣味も正反対だが、なぜか気が合う。


「大学来て、最初に声かけてくれたの、お前だろ。ありがとな」


 そう伝えたとき、悠人はいつものように笑って、肩を叩いてきた。


「別に。お前が一人で飯食ってたの、目立ってたしな」


 きっと、そういうさりげない優しさが、遼には心地よかった。


 けれど、悠人がどれだけ心配しても、遼の心にはぽっかりと穴が空いている。それは、五年前に失くしたものの形だ。


 ──澪。


 その名前を口にすることはない。だが、心の中では毎日何度も、何百回も繰り返している。


 通学路の坂道。夕暮れの空。校舎の裏の小道。風の匂い。夏の陽射し。すべてが、彼女を思い出させる。


 遼はそのたびに、何度も“あの夏”に立ち返ってしまうのだ。


 八月の午後、大学の図書館は静まり返っていた。


 遼は詩集を手に、ページをめくる。文字の隙間から、澪の声が聞こえた気がした。


 ──ねえ、好きな詩ってある?


 ──うん……あたしはね、「言葉にできない気持ち」を書く詩が好き。


 なぜ、そんなことまで覚えているのか。


 遼は本を閉じ、そっと目を伏せる。


「忘れられないんじゃなくて、忘れたくなかったんだ」


 呟いた声が、自分でも驚くほどかすれていた。


 再会なんて、あるわけがない。そんなことはわかっている。けれど、街角で黒髪の少女を見るたび、胸がざわつく。あの横顔が、歩き方が、声のトーンが、すべて澪に重なって見えてしまう。


 記憶は、残酷だ。忘れたいものほど鮮やかで、思い出したくないことほど、無意識に浮かび上がる。


 そしてそのたびに、遼はひとり、静かに沈んでいく。


「……あのとき、伝えていれば」


 それは遼が何度も自問した後悔。だが、後悔は何も変えられない。ただ過去の自分を刺し続けるだけだ。


 夜、部屋の窓を開けると、街の灯りが遠くに滲んでいた。


 アパートの一室、冷えた空気に包まれて、遼は机に向かう。ノートには、走り書きのように文字が並んでいた。


「あの日、君がいなくなるなんて思わなかった。

 いつかちゃんと伝えるつもりだった。

 でも、その“いつか”は、もう来ない──」


 そうして筆を止めると、深く息を吐いた。


 ノートの余白が、どこか墓標のように思えた。


 彼はその日も、眠れなかった。

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