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「井袋さん、言葉にしない味」

 翌週の金曜日、葵はいつもより早く退社し、会社近くの喫茶店で井袋を待っていた。

窓際の席に座りながら、手帳の空白をめくる。そこには“今日の一皿”のタイトルすら書いていない。井袋はまだ目的地を教えてくれていなかった。


数分後、扉のベルが鳴り、井袋が姿を現した。

いつものように落ち着いた雰囲気で、静かに席に座る。


「お待たせしました」

「いえ、手帳を書き直してたところです。今日の目的地、ヒントくらいもらえますか?」


「……“音のしない料理”です」

井袋はコーヒーをひと口飲んで、ぽつりと答えた。


「音のしない……?」

葵は首をかしげる。ラーメン、トンカツ、焼きそば、どれも音と共に記憶に残ってきた。

だけど“音のしない料理”とは?


井袋は微笑んだだけで、それ以上は何も言わず、店を出た。


その日ふたりが向かったのは、目黒の住宅街にある、小さな和食のしじま

看板すらなく、まるで誰かの家のような佇まいだった。


引き戸を開けると、ほの暗い照明の中に木の温もりが広がっていた。

カウンター席が五つと、小さなテーブル席がひとつ。まるで茶室のような空間だった。


「こんばんは。二名様ですね」

女将が静かに迎えてくれた。声もまた、まるでこの店の空気に溶け込むように柔らかい。


席に通されると、井袋は「おまかせで」とだけ告げた。

それから、ふたりの間には不思議なくらい静かな時間が流れた。

厨房からは包丁の音も、鍋の音もほとんどしない。聞こえるのは、たまに湯が小さく立てる音と、箸が器に当たるかすかな音だけだった。


最初に出されたのは、豆腐と白味噌の椀物。

湯気がふわりと立ち上り、白い器の中に月のように浮かぶ柔らかな豆腐。


「……静かですね」

葵が囁くように言った。


「音も味のひとつなんです」

井袋が答える。

「だから、音がないことで逆に見えてくる味がある。舌の感覚、香り、温度……そういうものが、浮き上がってくるんです」


葵は椀を手に取り、静かにひと口すする。

まろやかな味噌の甘さと、豆腐の柔らかい輪郭が、口の中に静かに広がっていく。言葉にしようとすればするほど、言葉にならない。


次に出てきたのは、炊きたての白米に、ひとさじの塩昆布が添えられた一膳。

何も足されていないご飯が、これほど美味しいのかと葵は驚いた。噛むたびに甘さが滲み、昆布の塩気がその甘みをそっと引き立てる。


「言葉がいらないですね」

思わず、ぽつりとつぶやく。


「だから僕は、“食べる”ことを真面目にやってるんです」

井袋の声は、どこか少し寂しげにも聞こえた。

「どんなに美味しいものでも、雑に食べればその奥にあるものが見えなくなる。静かに、丁寧に、向き合えば、ちゃんと伝わってくるんです。つくった人のことも、その料理の生まれた背景も」


「……井袋さんにとって、食べることって、祈りみたいなものですか?」

葵がふと聞くと、井袋は少しだけ目を細めて、うなずいた。


「そうかもしれません。少なくとも、僕は今日のこの一膳を、たぶん忘れない」


食後、店の外に出ると夜風が少し冷たく感じられた。けれど、葵の胸の内には静かな熱が残っていた。

“静けさの中で、味と向き合う”——そんな経験は初めてだった。


「音がしないのに、こんなに記憶に残るんですね」

葵が言うと、井袋は「そうですね」とだけ答えた。


言葉にしないからこそ、深く残る味がある。

静けさの中でこそ、感じ取れる何かがある。


それが今日の一皿の教えだった。


葵は手帳に、ただ一行だけ、そっと書き加えた。


“静かなる一膳、深く沁みる”

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