「井袋さん、遠くの町へ」
午前九時、まだ眠気が残る東京駅のホーム。
葵は手帳を抱えて、少し落ち着かない様子で待っていた。休日の朝らしい空気の中、周囲には旅行客やビジネスマンが行き交っている。
「早いですね」
井袋の声がして、振り向くと、スーツではなくラフなシャツにチノパン姿の彼が立っていた。どこか、少しだけ雰囲気が違って見える。
「いつもは朝食を食べてから出かけるんですけど、今日は井袋さんと一緒に“初めての一皿”を味わいたくて、我慢しました」
葵が笑いながら言うと、井袋も小さく笑った。
「いい選択です。今日の一皿目は、なかなか特別ですよ」
電車がホームに滑り込む。ふたりは静かに乗り込み、窓際の席に並んで座った。
車窓の外に流れる街並みが、少しずつ開けていく。高層ビルが減り、遠くに山が見え始めた。
「目的地、まだ教えてもらってないんですよね」
葵がふと尋ねる。
「群馬の桐生です。織物の町ですが、昔から地元に愛されている焼きそばの名店がある」
井袋はスマホの地図を指でなぞりながら言った。
「太麺で、ソースは甘め。でも驚くほど飽きがこない ちょっと特別な一皿です」
葵はその言葉を手帳に書き留める。
“桐生焼きそば——甘さと太さのバランス。”
その一文の先に、まだ味わったことのない香りと温度がふわりと広がっていく気がした。
電車は二時間ほどで目的地に到着した。駅前は落ち着いた空気で、東京の喧騒とは別の時間が流れているようだった。
「こっちです。歩いて十五分くらい」
井袋に案内され、ふたりは商店街を抜け、少し古びた通りを歩く。
やがて見えてきたのは、白い暖簾がかかった小さな店《藤乃屋》だった。
扉を開けると、鉄板の上で焼きそばがジュウジュウと音を立てていた。香ばしいソースの香りが鼻をくすぐる。店内には地元の常連客らしき人たちが何人か座っていて、どこか家庭的な空気が漂っていた。
「焼きそば、ふたつ」
井袋が短く告げると、年配の女性がにこっと笑って頷いた。
「この店、初めて来たときは驚きましたよ」
井袋が言った。
「見た目は素朴。でも、麺の食感とソースのバランスが絶妙なんです」
ほどなくして出てきた焼きそばは、たしかにシンプルだった。キャベツがたっぷり入り、赤い紅しょうがが鮮やかに映えている。麺はもちもちと太く、湯気の立つその姿は、見ているだけで食欲をそそる。
「……いただきます」
葵が一口食べた瞬間、目を見開いた。
「うわ、甘い……のに、しつこくない。すごく不思議な味です」
「それが、この焼きそばの魔法です」
井袋も一口食べて、満足げに頷いた。
「この町の人たちが何十年も愛し続けてきた理由が、ちゃんとわかる」
「派手さはないけど、噛めば噛むほどじんわり広がる感じですね」
「味って、記憶のように重なっていくものなんです。 最初の驚きより、最後の余韻が大事だったりする」
食べ終わったあと、ふたりは静かに店を出た。通りの向こうに、古い織物工場の建物が見える。
「桐生って、初めて来ましたけど……こういう場所で食べると、料理の背景まで含めて味になる気がします」
葵がぽつりとつぶやいた。
「それが、“旅して食べる”ってことなんでしょうね」
井袋が言った。
「どこに行くか、よりも何を感じるか、ですね」
ふたりはゆっくりと駅までの道を戻り始めた。
この日記すべきだったのは、きっと焼きそばの味だけじゃない。
目にした風景、店の人の笑顔、町の空気。
“食べる旅”は、料理の先にあるものすべてを味わうことだった。
次は、どこへ行こう。
葵は白紙のページを開きながら、ふと思った。
まだ見ぬ味が、きっとどこかで静かに湯気を立てている。