「井袋さん、食べるとは」
日が沈み、夜の街は穏やかな明かりに包まれていた。
看板のネオンが通りにぽつぽつと灯り、週末の金曜ということもあって、居酒屋やレストランの前には人の列ができ始めている。
井袋と葵は、最後の一軒を探して静かな通りを歩いていた。
「さすがに今日はもう終わりかな」
葵が笑いながら言った。
「お腹はいっぱいだし、もう手帳に書くスペースも残ってないです」
井袋は少しだけ空を見上げた。
「僕はもうちょっとだけ歩きたい気分です 食べすぎたときほど、少し体を動かすと気持ちがいい」
葵はその言葉に頷きながら、肩の力を抜いて歩調を合わせた。
二人の間に流れる空気は、どこか穏やかで柔らかかった。
しばらく歩いた先、小さな公園の前に差しかかる。ベンチがひとつ、街灯の下にぽつんと置かれていた。井袋は足を止めた。
「ちょっと、座っていきませんか」
「いいですね」
ふたりは並んでベンチに腰を下ろした。聞こえるのは、遠くから聞こえるざわめきと、木々を揺らす風の音だけ。食後の静けさが、じわりと身体に染みわたる。
「食べるって、なんなんでしょうね」
ふいに葵が呟いた。
井袋はすぐには答えず、ポケットから小さなペットボトルの水を取り出して一口飲んだ。
「なんなんでしょうね」
彼も同じように呟いた。
「栄養を摂る行為って言ってしまえばそれまでだけど、それだけじゃないことは、今日改めて思いました」
葵は小さく笑った。
「ですよね。だって、食べてる間、すごくいろんな感情が湧いてきた気がします 懐かしかったり、嬉しかったり、感動したり」
「食べることは、感情に近いと思ってます」
井袋が少し前を見つめながら言う。
「思い出も、誰かとの関係も、感情の動きも、全部そこに重なる。美味しさって、単なる味じゃなくて経験そのものなんですよね」
「うん」
葵は静かに頷いた。
しばらく沈黙が流れる。けれどそれは、心地いい沈黙だった。
今日という一日をゆっくりと咀嚼して、噛みしめて、静かに消化していくような時間。
「井袋さん、これからも一緒にいろんなものを食べてもいいですか?」
その言葉は、思っていたよりも自然に口から出た。
井袋は少しだけ驚いたように彼女を見たが、すぐに笑みを浮かべた。
「もちろん。でも、僕のペースはゆっくりですよ」
「それでいいです。むしろ、そういう食べ方をちゃんと見ていたいんです」
「じゃあ、次の休みの日、どこか遠くの町に行ってみましょうか」
「え、それって……旅ですか?」
「ええ、“食べる旅”です」
葵の目がぱっと輝いた。
思わず手帳を取り出し、次のページをめくる。そこはまだ、真っ白だった。
「予定、空けておきますね」
街灯の明かりが、静かにふたりを照らしていた。
食べることを通じて出会ったふたりは、これからも一皿一皿、人生を味わうように旅を続けていく。
次の目的地は、まだ決まっていない。
けれど、きっと美味しい何かが、そこには待っている。