「井袋さん、カレーに挑む」
夕方五時、街には少しずつ仕事帰りの人々が流れ始めていた。店の明かりが灯り、通りには食欲を刺激する匂いが混じり合う。井袋と葵は、オムライスの余韻を少し残しながら、静かに歩いていた。
「まだ、食べますか?」
葵が少し不安そうに聞いた。
井袋は歩みを緩めず、微笑んだ。
「ええ、もちろん。今日はもう一軒、決めてたんです」
「どこですか?」
「老舗のカレー屋。スパイスが効いた、大人向けの一皿です」
その言葉に、葵の目がきらりと光る。
「カレー、大好きです。辛すぎなければ、ですけど……」
「そこのは辛さが選べますよ。でも、甘口にしてもスパイスの香りはしっかりしてて、物足りなさはないはず」
やがて二人がたどり着いたのは、レンガ造りの小さなカレー専門店《香屋》だった。扉を開けると、スパイスの複雑で濃厚な香りが鼻をくすぐる。
店内は落ち着いた照明で、ジャズが小さく流れていた。カウンター席に案内され、ふたりはメニューを開く。
「チキンカレーの中辛、ライス少なめで」
井袋が静かに注文した。
「私は……ビーフカレーの甘口でお願いします」
葵もメニューを閉じながら言う。
「カレーって、味の完成度を試される料理だと思うんです」
井袋がぽつりと言った。
「素材の使い方、スパイスの配合、火入れの加減……全部が詰まってて、ごまかしがきかない」
「なるほど……オムライスとまた違った“技”の世界ですね」
葵は感心したように呟いた。
運ばれてきたカレーは、まるで芸術品のようだった。黒に近い深いブラウンのルーが、白い皿に美しく映える。チキンの表面にはこんがりと焼き色が付き、スプーンを入れるとほろりと崩れるほど柔らかかった。
井袋は、まず一口、慎重に口に運ぶ。
鼻に抜けるスパイスの香りと、口の中で広がる深い旨味。それは単に辛いのではなく、体の奥からじんわりと温めてくれるような、調和された辛さだった。
「これは……想像以上です」
彼はゆっくりと息を吐いた。
「スパイスの重なり方が複雑なのに、うるさくない。ちゃんとひとつの味になってる」
「わたしのも……美味しい」
葵は目を丸くして言った。
「甘口だけど、香りがしっかりしてて。むしろ甘さがスパイスを引き立ててる気がします」
ふたりはしばらく黙ってカレーに向き合った。食べるたびに、新しい風味が舌に触れ、飽きることがない。まるで音楽のように、味が流れていく。
「カレーって、“文化”なんですよ」
井袋がまた呟くように言う。
「国によっても違うし、地域でも違う。同じ日本でも、家庭の数だけ味がある。だから、カレーを食べるっていうのは、その店の人生を食べるようなものだと思ってます」
葵はその言葉に、深く頷いた。
「……なるほど。だから井袋さん、丁寧に食べるんですね。急がず、一口ずつ」
「そのほうが、ちゃんと伝わると思ってるんです。その料理をつくった人の想いが」
カレーを食べ終えたあと、店を出ると、夜の風が心地よかった。
「今日は三軒も回ったのに、全然苦しそうじゃないですね」
葵が言うと、井袋はにこりと笑った。
「適切な順番と、無理をしないペース。そして、何より“美味しく食べたい”という気持ちがあれば、大丈夫なんです」
「……やっぱり井袋さん、不思議な人です」
葵は手帳を閉じ、笑った。
カツ丼、ラーメン、オムライス、カレー。どれもが一皿の料理でありながら、それぞれに物語があり、人の想いがある。井袋直哉の食べ歩きは、そんな“人の味”を巡る旅なのかもしれないと、葵は思い始めていた。
そして、彼女の中にもまた、確かな何かが芽生え始めていた。
それは食べることへの敬意と、小さな情熱だった。