「井袋さん、オムライスを語る」
午後三時を回った頃、陽の光が少しずつ傾き、街の景色に柔らかい陰影を落としはじめていた。
喫茶店を出た井袋と葵は、静かな裏路地を歩いていた。大通りから一本入っただけで、そこは急に時間の流れがゆったりとしたような気がした。
「この辺に、気になってた洋食屋があるんです」
井袋がスマホを確認しながら歩く。
「オムライスが有名な店で、創業は昭和30年代。地元の人たちに長く愛されてるらしくて」
葵は感心したように頷いた。
「本当に、いろんなお店知ってるんですね」
「知ってるというか……ずっと探してるんですよ、自分の“理想のオムライス”を」
井袋の声は、少しだけ懐かしさを帯びていた。
「小さいころ、母親が作ってくれたオムライスがすごく好きで。でも、もうレシピもわからなくなっちゃってて。だから食べ歩きの中で、あの味に近い一皿に出会えたらって思ってるんです」
葵は静かに彼の横顔を見た。
美味しいものを追いかけるその姿には、懐かしい記憶や家族の風景がしっかりと刻まれている。
それはただのグルメではなく、人生そのものを味わうような行為なのだと、彼女は少しだけ理解した気がした。
ほどなくして、小さな看板が見えてきた。
《キッチンはらだ》
クリーム色の壁に赤いひさし、ガラス越しに見える木のカウンター。外観だけでもう、どこか優しい味がしそうだった。
店内に入ると、ふんわりとしたバターとケチャップの香りが出迎えてくれた。
まるで実家に帰ってきたかのような安心感が、そこにはあった。
「いらっしゃい」
年配の女性が笑顔で迎えてくれる。ふたりはカウンターに並んで座った。
「オムライス、二つお願いします。大きさは普通で」
井袋がそう告げると、葵はくすっと笑った。
「今日は大盛りじゃないんですね」
「この店のは“ちょうどいい量”らしいんです。最初から完成された一皿なら、足さず引かずが一番いい」
しばらくして運ばれてきたオムライスは、まるで絵本から抜け出したようだった。
ふわりとした卵、つやのあるケチャップライス、そして優しく流れるデミグラスソース。
一口頬張ると、葵は思わず目を見開いた。
「……やさしい味」
「でしょう?」と井袋。
「こういうのが、忘れられないんですよ」
しばらくのあいだ、ふたりはほとんど言葉を交わさずにオムライスを味わった。
けれど、それは決して気まずい沈黙ではなかった。味わうことに集中する時間。食べるという行為だけに心を向ける、貴重な沈黙だった。
「食べるって、記憶に近いですね」
食べ終えたあと、葵がぽつりと言った。
「うん、そうかもしれない。だからこそ、大事にしたいんですよ、一口一口を」
その言葉に、葵は深く頷いた。
ただお腹を満たすだけではなく、何かを思い出し、心を満たすために食べる。
井袋直哉の食べ歩きには、そんな静かな強さがあるのだと、彼女は改めて感じていた。
外に出ると、風が少し冷たくなっていた。
次はどんな一皿が、彼らを待っているのだろうか。
葵は手帳を開きながら、そっと空腹を確かめた。まだ、もう一皿いけそうだ。




