「井袋さん、食べる理由」
「もっとお話聞かせてください」
そう言った葵は、ノートを抱えながら目を輝かせていた。
井袋は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに苦笑した。
「そんなに大した話じゃないですよ」
「いえ、すごく興味深いです 井袋さんの食べ方にはちゃんとした理論があるし、何より食べることを本当に大切にしてるんだなって思いました」
「まあ、そうですね せっかく食べるなら、美味しく食べたいですから」
「それにしても、これだけ食べ歩いてて太らないのも不思議です さっきのペースや食べる順番の話だけで、そんなに違いが出るものなんですか?」
「もちろん、それだけじゃないですよ」
井袋はコーヒーを飲みながら続ける。
「食べたあとの過ごし方も大事です 例えば、食後すぐに座りっぱなしにしないとか あとは、日頃の運動も多少は意識してます」
「運動?」
「そんなに大げさなものじゃないですけどね 朝少し歩くとか、階段を使うとか まあ、食べる分だけ動けば太らないっていう単純な話ですよ」
「なるほど…… でも、井袋さんってどうしてそんなに食べ歩きにこだわるんですか? ただ食べるのが好きっていうだけじゃない気がするんですけど」
その問いに、井袋は少しだけ表情を変えた。
「……昔、うちの家族がよく食べ歩きをしてたんです」
「家族?」
「ああ、父が転勤族で、あちこちに引っ越してたんですけど、行く先々で地元の美味しいものを食べるのが家族の楽しみだったんです だから、僕にとっての"美味しいもの"っていうのは、ただの食事じゃなくて、思い出とセットなんですよね」
葵はじっと井袋を見つめた。
「それで、今も全国を食べ歩いてるんですね」
「ええ 仕事柄、出張も多いですし せっかくだから、各地の味を楽しみたいなって」
「……いいですね」
「何がです?」
「そういう"食べる理由"があるの、素敵だなって思いました」
葵は微笑んだ。
「ますます取材したくなりました 井袋さん、これからも一緒に食べ歩きしてもいいですか?」
「そんなに食べられます?」
「もちろん! 私、食べるのも好きですし それに、井袋さんの食べ方をもっと知りたいんです」
井袋は少し考えてから、ゆっくりと頷いた。
「いいですよ せっかくなら、一緒に美味しいものを食べましょう」
こうして、フードライター・水瀬葵の"井袋直哉の食べ歩き取材"が本格的に始まった。
次に向かうのは、老舗の洋食屋 そこにはまた、絶品の味と新たな発見が待っている——。




