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井袋さんは食い倒れない  作者: 大和煮の甘辛炒め
二章 全国ラーメンフェス
18/18

「井袋さん、食べていく」

 季節は巡り、春が過ぎ、夏が訪れようとしていた。

かつて全国ラーメンフェスタが開かれた公園では、いま、青葉が風に揺れ、屋台の賑わいもすっかり影を潜めている。


井袋は静かな午後のベンチに座り、文庫本を片手にしていた。

隣には葵。コンビニで買った小さなパンを食べながら、何気ない空を眺めている。


「最近、少し変わりましたよね」


葵の言葉に、井袋は視線だけを向けた。


「食べ方です。前は、絶対に残さなかったし、必ず“意味”を見つけてた。でも最近は、なんていうか……ちゃんと“ただの食事”になってる気がする」


「……それは、悪くない変化ですか」


「うん、すごく。今の井袋さんのほうが、なんか楽しそう」


本を閉じて、井袋は小さく笑った。


「少し前まで、“食べること”は記録するもので、“食べ方”には意味がなければならないと思っていました。でも最近は……」


彼はゆっくり、ベンチの背にもたれかかる。


「食べるというのは、生きる中の“いちいち”であっていいと、思えるようになってきました。意味も記録も、無理に与えるものではない」


「それでも、やっぱり井袋さんは、なんかメモしそうですけど」


「ええ。結局、僕は変わらない部分もある。でも、変わらないままでいられるために、少しだけ変わったのかもしれません」


そのとき、公園の外から小さなパン屋の移動販売車がやってきた。

「焼きたてですー!」と叫ぶ声に、親子連れがぱらぱらと集まっていく。


「行きましょうか」

「パンも食べるんですか?」


「はい。今日は“何でもない日”ですから。そんな日は、焼きたてのパンが一番似合う」


ふたりはゆっくりと歩き始めた。

井袋は財布を出しながら、ひとつだけ決めているように言った。


「今日は、最後まで食べきってみます」


「めずらしいですね。何か理由でも?」


「理由がない日にも、ちゃんと味があることを、たまには思い出したいんです」


並んだ屋台の前で、彼はひとつだけチョコチップの入った小さなパンを買った。

ほんのり温かくて、柔らかくて、袋を開けると甘い香りがふわっと広がった。


そして、無言でひと口。


空の下、風の音、チョコの甘さ、すべてが自然にそこにあった。

記録も比喩も要らない、ただの「おいしい」が、そこにちゃんとあった。


葵はそれを見て、静かに笑った。


「井袋さんって、けっきょく……食べて生きてく人なんですね」


「ええ。だから僕は、食い倒れない。ちゃんと、次の一口のために、生きていくつもりです」


その言葉を背に、井袋はもうひと口、パンをかじった。


そして、何も言わずに歩き出した。


その足取りは、軽く、どこまでも進んでいけそうなほど、しなやかだった。

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