「井袋さん、食べていく」
季節は巡り、春が過ぎ、夏が訪れようとしていた。
かつて全国ラーメンフェスタが開かれた公園では、いま、青葉が風に揺れ、屋台の賑わいもすっかり影を潜めている。
井袋は静かな午後のベンチに座り、文庫本を片手にしていた。
隣には葵。コンビニで買った小さなパンを食べながら、何気ない空を眺めている。
「最近、少し変わりましたよね」
葵の言葉に、井袋は視線だけを向けた。
「食べ方です。前は、絶対に残さなかったし、必ず“意味”を見つけてた。でも最近は、なんていうか……ちゃんと“ただの食事”になってる気がする」
「……それは、悪くない変化ですか」
「うん、すごく。今の井袋さんのほうが、なんか楽しそう」
本を閉じて、井袋は小さく笑った。
「少し前まで、“食べること”は記録するもので、“食べ方”には意味がなければならないと思っていました。でも最近は……」
彼はゆっくり、ベンチの背にもたれかかる。
「食べるというのは、生きる中の“いちいち”であっていいと、思えるようになってきました。意味も記録も、無理に与えるものではない」
「それでも、やっぱり井袋さんは、なんかメモしそうですけど」
「ええ。結局、僕は変わらない部分もある。でも、変わらないままでいられるために、少しだけ変わったのかもしれません」
そのとき、公園の外から小さなパン屋の移動販売車がやってきた。
「焼きたてですー!」と叫ぶ声に、親子連れがぱらぱらと集まっていく。
「行きましょうか」
「パンも食べるんですか?」
「はい。今日は“何でもない日”ですから。そんな日は、焼きたてのパンが一番似合う」
ふたりはゆっくりと歩き始めた。
井袋は財布を出しながら、ひとつだけ決めているように言った。
「今日は、最後まで食べきってみます」
「めずらしいですね。何か理由でも?」
「理由がない日にも、ちゃんと味があることを、たまには思い出したいんです」
並んだ屋台の前で、彼はひとつだけチョコチップの入った小さなパンを買った。
ほんのり温かくて、柔らかくて、袋を開けると甘い香りがふわっと広がった。
そして、無言でひと口。
空の下、風の音、チョコの甘さ、すべてが自然にそこにあった。
記録も比喩も要らない、ただの「おいしい」が、そこにちゃんとあった。
葵はそれを見て、静かに笑った。
「井袋さんって、けっきょく……食べて生きてく人なんですね」
「ええ。だから僕は、食い倒れない。ちゃんと、次の一口のために、生きていくつもりです」
その言葉を背に、井袋はもうひと口、パンをかじった。
そして、何も言わずに歩き出した。
その足取りは、軽く、どこまでも進んでいけそうなほど、しなやかだった。




