「井袋さん、完食しない」
ラーメンフェスタ最終日。日曜の午後。
空はどんより曇っていた。雨はまだ落ちていないが、空気は湿っていて、フェスタ会場の足元には泥が少しずつ広がっていた。
屋台の行列も、熱気も、どこか落ち着いた雰囲気に包まれていた。最終日特有の、名残惜しさと、食べすぎたあとの静けさが、会場全体に広がっている。
「結局、何杯食べました?」
「六杯ですね。全部違う店で、全部違うスープ」
井袋は穏やかに答えたあと、すぐに続けた。
「でも、どれも“最後まで食べきれなかった”んです」
葵は少し目を見開いた。
「えっ?井袋さんが完食しないなんて、初めて聞きました」
「食べきれなかったんじゃなくて、“食べないことにした”んです」
会場の片隅、フェスタを見下ろせる少し小高い丘の上に、ふたりは座っていた。ベンチではなく、芝生に直に腰を下ろして。
その間にも、最後の客たちがラーメンを手に行き来していた。
「どうして食べないんですか?もったいない、とは思いません?」
「ラーメンは、食べ終わった時よりも、“やめたところ”が記憶に残ると思うから」
井袋はそう言って、ポケットから昨日のスープの写真を見せた。どれも少しだけ残っていた。ほんの数口分。
「無理して完食してしまうと、その“満腹”の記憶が、ラーメンそのものを塗り替えてしまう気がして」
葵はゆっくり頷いた。
「“味のピークで箸を置く”って、ちょっとかっこいいですね。……私なら、絶対に食べ切っちゃうけど」
「それも正しいと思います。完食は誠意ですから。ただ、僕にとってラーメンは、旅に似ているんです。終点まで行くことより、“どこで降りたか”が、印象を決める」
そう言って、井袋は小さな白いカップを取り出した。
フェスタの「閉会記念限定スープ」。一口サイズの、シンプルな鶏だし。
「これが最後の一杯です。飲みきりサイズ。逃げもできない」
ふたりは同時にスープを口に含んだ。
薄いけれど芯のある味。塩も脂も最小限。何も主張せず、けれど確かに「終わり」にふさわしい。
「……これ、たぶん今日一番沁みました」
「きっと、“何も足さないこと”が、最後に必要だったんですね」
沈黙が訪れる。風が少し強くなり、のぼりがばたばたと最後の音を立てる。
やがてスピーカーから、スタッフの声が流れた。
「全国ラーメンフェスタ、これをもちまして閉会いたします。ご来場、誠にありがとうございました」
会場のざわめきが、徐々に消えていく。屋台がテントをたたみ、最後の湯気が空へ消えていった。
葵は手帳を開き、こう記した。
「満たされることよりも、余白を残すことで心に残る味がある」
それが、『全国ラーメンフェスタ』の最後に得た、いちばん静かで、深い教訓だった。
井袋は席を立ち、ラーメンの匂いが薄れていく空気を背に、ふと振り返った。
「次は、もっと地味な味を探しに行きましょうか」
葵は笑って頷いた。
美味しいものは、また別の湯気の向こうで待っている。




