「井袋さん、トッピングを迷う」
全国ラーメンフェスタ四日目。土曜の昼。
今日の会場はいつもより賑やかだった。子供連れの家族、大学生らしきグループ、食べ歩きを楽しむカップル。笑い声とラーメンの湯気が、春先の陽気の中に満ちていた。
「今日は混んでますね」
「この時間は“選ぶ楽しさ”が最大化されてるんです。ラーメンじゃなくて、空気を食べに来てる人も多い」
井袋はそう言いながら、会場の中央にある屋台村の中でもひときわ人の集まるブースの前に立ち止まった。
そこは“選べるトッピング20種”が売りの創作ラーメンの店だった。チャーシューに味玉はもちろん、パクチー、焼きチーズ、レモンピール、ポルチーニのオイルまで選べる。
「この手の店、意外です。井袋さんが来るとは」
「僕も意外です。でも今日は、少しだけ“選び疲れた人の気持ち”を知ってみようと思って」
葵は笑いそうになった。
「つまり、普段なら絶対来ないけど、今日は気まぐれってことですね」
店の前には小さな用紙と鉛筆が置かれていた。ベースのスープと麺を選び、そこに最大5つまでトッピングを記入できる仕組み。
葵は即決だった。
「私は醤油+細麺で、味玉、青菜、焦がしねぎ、柚子皮、焼き海苔。間違いない王道」
井袋はというと、黙って用紙を見つめている。鉛筆を手に持ったまま、まだ一文字も書いていない。
「……迷ってます?」
「ええ。“自分が何を欲してるか”って、意外とわからないものですね」
彼は鉛筆を置いて、ふとポケットから小さなメモ帳を取り出した。そこには過去のメニューや食べたものの記録が、びっしりと書き込まれている。
「記録しても、いまの気分には追いつけないのが難点です」
葵は吹き出しそうになった。
「それはもう、考えるのやめたほうがいいんじゃないですか」
それでも井袋は、ひとつひとつ丁寧に考え、ようやく紙に書き込んだ。
塩ベース、平打ち麺。トッピングは梅干し、わかめ、白髪ねぎ、柚子皮、そして最後に「なし」と記入された。
「“なし”って……?」
「五つの枠、全部埋めなくてもいいと思って」
ラーメンが届いた。
色とりどりのトッピングが賑やかに乗った葵の一杯と比べて、井袋のラーメンはずっと静かだった。
梅干しの赤が控えめなアクセントになっていて、スープの澄んだ塩気が、わかめとともに穏やかに香る。
「これはこれで、なんか…落ち着きますね」
「僕は今日、“選ばなかったもの”のことを、忘れたくなかっただけかもしれません」
スープを啜りながら井袋が言ったその言葉に、葵は少し黙った。
人は何かを選ぶたびに、選ばなかったものを置いていく。
でも井袋は今日、ひとつ分の余白に、選ばなかったものすべての気配を留めたのかもしれない。
「……贅沢しなくても、贅沢できる方法、なんとなくわかってきた気がします」
「それはつまり、“ラーメンの引き算”ですね」
その日の帰り道、葵は手帳にこんなふうに記した。
「選びきれない日には、空白を置いておくのもいい」




