「井袋さん、夜の屋台で手を止める」
ラーメンフェスタ三日目の夜は、前日よりも少し冷え込んでいた。
空は晴れていて星も出ていたけれど、風が強く、屋台ののぼりがパタパタと音を立てて揺れている。
葵は手袋の中で指先を擦り合わせながら、公園の入り口で井袋を待っていた。
待ち合わせの時間より少し早く着いたのに、彼はすでにいた。温かい飲み物が入った紙カップを二つ、両手に抱えて。
「寒いので、少しだけ甘いものを」
差し出されたのは、ゆずのはちみつ湯だった。湯気がゆっくり立ち上り、葵の頬にぬるい香りが触れた。
「今日は、人が少ないですね」
「平日の夜は、食べる人より、働く人のための時間ですから」
言葉を交わしながら歩いていると、会場の隅、少し離れたエリアに目が留まった。
そこには他の屋台とは違う、小さなテントがひっそりと建っていた。
「夜だけ出る屋台です。屋号はないんですけど……たぶん、ここがいちばん静かで、いちばん誠実な一杯を出します」
テントには、手書きの紙が一枚だけ貼られていた。
《夜のあっさり醤油ラーメン 七五〇円》
並んでいる人は二人だけ。葵と井袋はそのあとに並んだ。
屋台の中では、年配の男性が一人で切り盛りしていた。会話は最小限、無駄のない動きで麺を茹で、丼にスープを注ぐ。
やがて手元に届いたラーメンは、ただただ静かな一杯だった。
透き通った琥珀色のスープに、細いストレート麺、薄切りのチャーシューが一枚。青ねぎが少しだけ散らされていて、香りはやさしく、温度も過剰ではない。
ふたりは近くのベンチに腰を下ろし、言葉少なに食べはじめた。
どちらからともなくスープを啜り、箸を進める。話しかけるタイミングも、話す必要もなかった。
麺が半分ほどになったころ、井袋がふと、箸を止めた。
そして、空を見上げた。
「……何か思い出しましたか?」
「いえ、ただ、この味は“記憶に残らないラーメン”だな、と思って」
「え?それって……」
「悪い意味じゃありません。特別な個性はないけれど、確実に身体に沁み込んでいく。誰にでも食べられて、誰の記憶にもすっと馴染んで消えていく。そういう味も、料理には必要です」
葵は、目の前のラーメンをもう一口すする。
スープのあたたかさが喉を通り、胃に落ち、少しだけ背中がゆるんだ。
「記憶に残らないっていうより、“生活に溶ける味”かもしれませんね」
「……いい表現ですね」
風がまた、のぼりを揺らす音を立てた。星がいくつか、木の間から覗いていた。
人は少なかったけれど、それがかえって、この一杯を静かに包んでいた。
「……でも私は、きっと覚えてますよ。こんな日に、こんなふうに食べた味は」
「じゃあ、今日は“あなたにだけ残るラーメン”ということで」
井袋は笑いながら、スープの最後の一滴を飲み干した。
葵も、手帳を取り出すことなく、ただ黙って丼を見つめた。
何も書かなくても、たしかに今日の味は、心のどこかにしみ込んでいた。




