「井袋さん、並ばない」
全国ラーメンフェスタ二日目。葵はすでに二杯目を手にしていた。
一杯目は魚介豚骨の濃厚スープ、二杯目は焦がし醤油が香る中華そば。どちらも外さない味だったけれど、どこか物足りなさが残った。
「……美味しいのに、記憶に残らないって、不思議ですね」
ふと口にしたその言葉に、井袋は「それ、よくわかります」と笑った。
今日は快晴で、土曜の公園はさらに人で溢れている。各ブースの行列は長く、どの店も20分は待つと案内が出ていた。
「並ぶの苦手でしたっけ?」
「苦手ではありません。ただ、僕が選びたいのは“並ばずに残っている味”なんです」
井袋は目を細めて会場を見回し、ふと立ち止まった。そこには、他の店のような派手な看板も、長い行列もなかった。
「喜多方クラシックラーメン」
素朴な白地ののぼりに、淡い青で店名だけが書かれていた。
「……地味ですね」
「ええ。でも、こういうブースが好きです。誰かに勧められて食べるんじゃなくて、自分の目と足で見つける味には、ちゃんと“自分の責任”が伴います」
並ばずに受け取ったその一杯は、驚くほどシンプルだった。透き通るような醤油スープ、厚めのチャーシュー、手揉みの縮れ麺。
何の“仕掛け”もないのに、一口で心が静かになる。
「……すごいですね。味が、懐かしいとか美味しいを超えて、落ち着くって感じです」
「きっと、“意図のない美味しさ”なんでしょうね。作り手が何かを狙っていない。だから、余白がある」
井袋はその余白に、黙って麺をすする音を重ねる。
葵もそれに倣うように、言葉を閉じてスープを飲んだ。
「並んで得られる“期待された満足感”もいいけど、こういう一杯は、“気づいたら染み込んでる”感じですね」
「そう。心に並ばないラーメン、って言ってもいいかもしれません」
ふたりは静かに笑った。
食べ終わった器を返し、ベンチに腰を下ろしたとき、葵はふと思った。
このフェスで井袋と話している時間は、食べているよりも“選ぶ”ことに意味があるのかもしれないと。
「並ばなかったのに、ちゃんと届きました」
「それは、あなたの足と目が選んだ結果です。ラーメンより、そっちの方がずっと大事だと、僕は思います」
葵は手帳を開き、書き記した。
「列のない味を選ぶ勇気、静かな一杯に、気持ちが並ぶ」
人が押し寄せる味よりも、自分の中に静かに広がる味を。




