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「井袋さん、冷たいコロッケをすすめる」

 その日の昼休み、葵は少しだけ憂鬱だった。

会議が長引き、ランチに出られたのは13時過ぎ。お気に入りのカフェは満席、コンビニのおにぎりもどこか味気ない気がして、ビルの階段に腰を下ろしてひと息ついていた。


スマホの通知が一つ。

《近くにいます ちょっとだけ寄りませんか》

井袋からだった。位置情報が添えられていて、確認するとほんの数分の距離だった。


その場所へ向かうと、ビルの裏手にある古い惣菜屋の前に、井袋は立っていた。

白いシャツに、ネイビーのジャケット。整ってはいるけど、どこか馴染みすぎていて街に溶け込んでいる。


「珍しいですね、こんな場所で」

「今日はどうしても、ここに来たかったんです」

井袋は紙袋を一つ手に提げていた。「よければ一緒にどうですか?」


ふたりは近くの公園まで歩き、空いていたベンチに腰を下ろした。

井袋が紙袋から取り出したのは、惣菜屋のコロッケだった。きれいに揚がった衣が、少しだけ油を吸ってしっとりとしている。湯気はもう出ていない。


「……冷めてますね?」

「はい。あえて、冷めたままにしました」


井袋はそう言って、紙袋をふたりの間に置いた。


「昔、祖母の家で出てきたコロッケが、いつも冷めてたんです。温かいまま出すほど几帳面じゃなかったし、あの人の料理は大体、作り置きでした」


井袋はコロッケを一つ取り、手で半分に割った。ホクホクというより、しっとりとした断面から、淡い香りが立ちのぼる。


「でも、なぜかその冷たいコロッケが妙においしくて。…今でも時々、あれが食べたくなるんです」


「思い出の味、ってやつですか?」

「ええ。たぶん、味自体より、食べたときの“空気”のほうを、求めてるんでしょうね」


葵もひとつ、そっと手に取った。口に運ぶと、サクサクとはいかないけれど、衣の下のじゃがいもが、しんとした優しさで口の中に広がっていく。肉は少なく、玉ねぎが多め。どこか、懐かしい味がした。


「…冷たいけど、あったかいですね」

「不思議ですよね。あの頃、祖母はあまり多くを話さない人でしたけど、料理には何か言葉みたいなものが込められてた気がするんです」


ベンチに座るふたりの前を、犬を連れた老夫婦が通り過ぎていった。風が秋の匂いを運んできて、遠くで落ち葉が転がる音がした。


「“ちゃんとしてないけど、ちゃんと伝わるもの”って、案外あるんですね」

葵がつぶやくと、井袋は目を細めてうなずいた。


「料理だけじゃないですよ。人も、時間も。完璧じゃなくて、どこか雑だったり、冷めてたりしても、それがいいんです。無理して熱々じゃなくていい」


そう言いながら、井袋は袋の中の最後のコロッケを見つめた。

けれどそれには手を伸ばさず、葵に差し出す。


「食べないんですか?」

「今日は、葵さんが食べてくれた方が、嬉しい気がしたので」


そのひとことに、葵は少し驚いて、そして静かに笑った。

「じゃあ、いただきます」


冷めたコロッケの最後のひとつは、静かに、けれど確かに記憶に残る味がした。


その日の夕方、葵は手帳を開いて、一言だけ書いた。


「熱々じゃないものも、あたたかい」


冷たいコロッケが教えてくれたのは、時間が経ったからこそにじむ、やわらかい優しさだった。

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