「井袋さん、食べ歩く」
「ごちそうさまでした」
井袋直哉が箸を置くと、店主が驚いたような顔をした。目の前には、すっかり空になった特大カツ丼の器。ご飯は一粒も残っていない。
「兄ちゃん、本当に食べきるとはなぁ……。この店の『鬼盛りカツ丼』、挑戦者の半分はリタイアするんだぜ」
「いやぁ、美味しかったです。カツが分厚いのにサクサクで、ソースも絶妙でしたね」
そう言いながら、井袋は水を一口飲んで席を立つ。店主は、思わず彼の腹をちらりと見た。スーツのシャツはピシッとしていて、特にお腹が膨らんでいる様子もない。普通なら、あれだけ食べたらベルトを緩めたくなるはずなのに——。
「ホントに大丈夫か? 食いすぎて動けなくなるんじゃ……」
「全然大丈夫ですよ。じゃあ、ごちそうさまでした」
井袋は軽やかな足取りで店を後にした。
「……信じられない」
通りの向こうで、その様子を見つめていた女性がいた。フードライターの水瀬葵である。
彼女は今、"全国の大盛りメニューを制覇する男"として噂の井袋直哉を取材しようとしていた。食べ歩きブログの読者から「すごい人がいる」と情報をもらい、実際に目の当たりにしたのだが——。
「どうしてあんなに食べて、あんなに普通でいられるの……?」
葵は手帳を開き、メモを取った。
——井袋直哉。食べても苦しそうな様子なし。体型も標準。食後、普通に歩いている。要調査。
興味を持った葵は、彼のあとを追うことにした。井袋直哉とは何者なのか? 彼が食い倒れない理由とは?
美味なる謎を追いかける、食べ歩きストーリーが今、始まる——。