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「地獄の扉」ダイジェスト

作者: 恵梨奈孝彦

最初のきっかけは、母が、亡くなる数日前に言った言葉でした。

母はこう言ったんです。

「あんたがお父さんを乗りこえたのは、お父さんが死んだあの日だったね…」と。

  それで、僕が母のその言葉の意味を聞く間もなく、母は逝ってしまいました。

 それで、母の通夜や葬儀の間は忙しくて忘れていたんですが、落ち着いたころ、ある晩家の玄関のドアを引いた時に、ふいに思ったんです。

 「自分はこの、ドアを引く感触を知っている」と。

 僕ら家族がアメリカに住んでいたころ、父は強盗に刺されて死にました。そのとき、母は出かけていて、家には僕だけしかいなかったんです。

 だけどその時のことを僕は全く覚えていない。

父の死のような、強烈な出来事を覚えていないのはなぜなのだろうか。

 人間は自分の心を守るために、自分にとって不利益な記憶、思い出したくない記憶を抹消しようとするが、抹消しきれずに、無意識の奥底に抑圧する。だけど抹消できず、抑圧された記憶はふとしたきっかけで意識に上ってくる。

 それがこの、「ノブを引く感触なのではないか」と。

 玄関のノブというものは、脱いである靴が邪魔にならずに開け閉めできるように、押すことによって開き、引くことによって閉まるようになっている。

 父は、「玄関の外」で死んだと聞いています。では僕は何のためにドアを必死に引いていたのか?

 父を家の中に入れないために?

 必死に家の中に入ろうとしていた父を、強盗を家に入れないために、自分が助かりたいために、僕は父を閉め出したのか?

 ぼくは「父親殺し」じゃないのか?

 心理学では、「父親殺し」を経験しなければ父を乗りこえられないというと、聞いたことがあります。

 母が「父を乗り越えた」と言ったのは、この「父親殺し」のことじゃないのか?

 そう思ってしまったんです。それからずっと、ひどい不安感と焦燥感に襲われて、じっとしていることもつらくなったんです。

 だけど、5歳の子供が、自分の命を守るためにドアを閉め続けたことがそれほど非難されることだとも思えない。ということは、自分はもしかしたら、もっと罪深い、恐ろしい記憶を抑圧してるんじゃないのか?

 もしかしたら、自分は虐待されていたんじゃないか。だから「父親殺し」をしてしまったんじゃないか。覚えていないのは抑圧しているだけで、ある日恐ろしい思い出がよみがえってしまうんじゃないか。

いや、自分がかつてどうされていたなんか関係ない。母親は「父親殺し」なんて一度も言ってない! そう、自分に言い聞かせても不安は全く減りません。

 夜は全く寝られない。生きている以上は眠っているはずなのに、まったく寝たと思えない。一日の始まりと終わりがわからない。不安と焦燥が24時間続く。それが何ヶ月も続く。

 もしかしたら、一生こうじゃないかと思ったとき、考えてはいけないことを考えてしまいました。

 いっそ、死んだ方が楽なんじゃないか。

 それから、自分が自殺するんじゃないかと、恐ろしくてたまらなくなりました。

 筆立てのカッターナイフが恐ろしい。

 ホームに入ってくる通勤電車の正面の顔を見ると、自分が線路に飛び込まないかと恐ろしい。 

家の台所の火と、ガスと、油が恐ろしい。

死を連想させるものの全てが恐ろしい!

死にたくない!

だけど、死ねばこの「死の恐怖」からも逃れられるんじゃ…。

何を考えてるんだおれは!

だけど、死ねば楽になれる…。

これが妄想ではなく、頭の中に言葉として聞こえてくるようになりました。

そこで僕は、5歳の息子の隣で寝るようになりました。夜中に恐ろしい妄想が浮かんできても、あの可愛い寝顔を見ていると、少しだけ落ち着くことができたんです。

だけどある日、恐ろしい妄想が生まれました。虐待は連鎖すると聞いたことがある。もし自分が、虐待を受けていたとしたら、自分がこの子を虐待するということもありえるんじゃ…。

その日から、朝も昼も夜も、「自分がもっとも愛している息子を絞め殺す」という妄想が日に何百回も生まれるようになりました。

特に、夜中に無防備に寝ている息子を見ていると、この小さな体に馬乗りになって、抵抗もできずにいる息子を絞殺する自分が、一晩に何回も頭の中に出てきます。

だけど、息子のそばで寝ることがどうしてもやめられない。

そしてある日、こんな幻覚を見ました。ドアが向こう側に開くと、包丁を持った子供が立っている。これは、自分に絞め殺された息子が自分に復讐に来たんじゃないかと…。


医師にうながされるままに、今の状態になるまでのことを全て話した。ここには何ヶ月も通っているが、ここまで順序だてて話したのは初めてだ。

心療内科の診察室には医療器具らしいものは全くない。広々としたフローリングの部屋に大きな観葉植物の鉢、広いマホガニーの机。机の向こうでは、丸い眼鏡をかけた、ちょっと色白で丸顔の医師が、小柄な体を丸めて腕組みをしながら目をつむり、微笑をたたえながら座っている。自分の話の間、この医師はずっとこの姿勢のまま聞いていた。

「田中さん。抗不安剤もあまり効かないようですね…」

医師はぱっちりと目を開けると、なにがおかしいのかにっこりと笑った。

「今日はちょっと、別のアプローチをしてみましょう。…ちょっと目を閉じてください」

言われるまま瞼を閉じた。催眠術でもされるのだろうか。


『もしもし! 警察ですか!』

 テープから再生されたらしい音声が聞こえた。通報記録のようだ。

『はい。こちらマンハッタン分署』

 これは、間違いなくあの日のことだ。

 あの日、父親も母親も出かけていておれはひとりで留守番をしていた。

 あの時インターホンが鳴った。父親の姿が見えた。

 スピーカーボタンを押すと、父親が「鍵を忘れたから中から開けてくれ」と言っているのが聞こえた。

 音声をきっかけに、だんだんと思い出してきた…。

玄関まで走った。その時、スピーカーから父親が叫ぶのが聞こえた。

「ダメだ!」

「どうしたの?」

 インターホンのカメラに、血まみれの父親と、笑い狂っている黄色いコートの男が映った。

警察だ…。警察に連絡しなくちゃ!このころの習慣で、電話をスピーカーモードにした。さらに音声が聞こえてくる。

『パパが! 家の前で黄色いコートの男に刺されてる!』

『正確な住所はわかりますか!』

『ここは…、マンハッタン…』

『それはわかっています。正確な住所を!』

 正確な住所なんかわからなかった。あのあとおれは、キッチンに行き、シンクの下についた開き戸を開け、包丁を握って立ち上がった。包丁を提げたまま玄関へ走る。

何のために?

『どうしたんだ』

『子どもが、家の前で父親が刺されたと言っています! イタズラではなさそうです!』

『どこからだ!』

『わかりません!』

『逆探知は!』

『やっています。だけどまだ…』

 叫び声が聞こえる。

『パパ、あけてよう! ぼくがそいつをやっつけてやる!』

『日本語か? 何を言ってる!』

『子どもが、外に出ようとしています!』

『バカな! 何のために!』

『父親を守るために!』


 馬鹿な。おれは確かに必死にドアを引いていた!

 その時、やっと気がついた。

 日本でノブを引いて、自分はドアを閉めようとしていたと思った。

 日本の玄関のドアはたいがいが外開きだ。玄関で靴を脱ぐ習慣があるため、内開きではドアを開け閉めする際に靴が邪魔になってしまう。

 しかしアメリカでは玄関で靴を脱いだりしない。都会のような治安が悪い土地では内開きが多い。暴漢に鍵を破られた時の用心のためであり、ドアの内側に重い家具を置いてバリケードをつくるためだ。

 おれはあの日、内鍵を開けて思い切りノブを引いた。

 ドアを閉めるためではなく開けるために!

父親を外に閉め出すためではなく、外に出て父親を守るために!

 このおれに、そんなことができたなんて…。

だけどなぜ、結局外に出なかったんだ?


『…だめだ。信明。外に出るな!』

かすれた声が聞こえる。

『パパ、どいてよ! ぼくがそいつを!』

『子どもは外に出たのか!』

『いえ! 刺された父親が、扉を引っ張って、子供が外に出るのを防いでいます!』


おれが必死にドアを開けようとしていたのを、瀕死の父親がノブを引っ張って閉じていたんだ。瀕死と言っても大人と子どもだ。おれはドアを開けることができなかった。

あの「内側に開く」ドアの幻影。地獄の扉。あれを開ければ「地獄」が家の中に入ってくる。父親はそれを命をかけて防いだ!

あの少年は、息子ではなくておれだったんだ! あの幻覚は、父親を守りたいっていうおれの執念のあらわれだったんだ!

おれは愛されていた!

おれは父親殺しなんかじゃない!

おれは虐待なんかされてなかった!

虐待が連鎖なんかするわけがない!

おれが息子を殺すなんて、絶対にありえない!

息子に会いたい…。今すぐあのやさしい子供に会いたい!


『逆探知出ました! ハードウェアリバー街スクルプチュア通り213番!』

『近くにいるパトカーを全部向かわせろ。犯人は黄色いコートの男だ。見つけしだい射殺しろ! 何としてもこの勇敢な親子を助けるんだ!』

『もうやってます!』

 ここからは妄想でも再生された音声でもない、本物の思い出!

近づいてくるサイレンの音。

引っ張っていたドアの重みが消えた。

外に飛び出した。

倒れている血まみれの父親にとびついた。

「パパ、ごめんよう…。まもれなくてごめんよう…」

父親が息も絶え絶えに言う。

「おまえは強い…。パパがいなくても…」


「父親殺しが父親を乗りこえることだなんて、フロイト的な前世紀の遺物です。あなたはそんなことをしていない。その『物的証拠』がここにある! あなたの話を聞いていて、ドアの内開きと外開きの違いがどうしても気になった。そこでアメリカの警察に問い合わせてみたところ、この通報記録がすでに部外秘扱いが解除されていたので、取り寄せさせてもらいました」

 医師の声が聞こえる。瞼を開いた。

「だけど、なぜ今まで忘れていたんでしょうか」

「あなたは勇敢な子供だった。だから、お父さんを守れなかった自分を許せなかったんです。言わば、あなたの精神があなたの勇敢さを受けきれなかったんです。だからあの時のことを無意識に閉じ込めた。まあ、こんなものは仮説に過ぎませんが、あなたに何の罪もないことだけは確かです」


 なんだか夢のようだ。それでいて、外の景色をはっきり知覚できる。青い空、白い雲、グレーの電柱、黄色を主調とした酒屋の看板、明るいオレンジのブロックが敷かれた歩道。さっきまで見ていた白黒画面に一気に色がついたようだ。

 嬉しそうな子供の笑い声が聞こえる。

 声の方を見た。

 可愛い男の子が笑いながらこっちに駆けてくる。


「パパ!」



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