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短編小説

むらさき時雨

挿絵(By みてみん)



 私は不出来なこどもだった。


 いつももたもたとしてとろく、大人から何か訊かれてもすぐに返事ができない。走らせれば転んでパンツが丸出しになるし、自転車にいたってはとうとう補助輪がはずせなかった。さいわい、学校の勉強ではさほどの遅れはなかったが、実技系はてんでだめで、特に音楽がひどかった。三年生のとき、クラス全員の前で「茶摘」をひとりワンフレーズずつリレー形式で歌わされた。あんな屈辱は、二度と忘れられない。「野にも山にも若葉が茂る」の音程の上がり下がりは、今もトラウマだ。


 音痴きわまりない私を、しかしお母さんは熱心にピアノ教室に通わせつづけた。お母さんが不機嫌になるので、私は毎日三十分の練習を欠かさなかったが、ほめられるべきは私の真面目さではなく、母親の忍耐力だったと、今でも思う。お母さんが実家から運び出した小さなグランドピアノは、家の設計時に予め防音室仕様としてあった五畳の部屋に入らなかった。両親は仕方なく、グランドピアノを居間に無理やり置いた。そのために、居間に置くべきソファーが防音室に追いやられ、そこは今ではお父さんのシアタールームとなっている。夜遅くまで映画を見るお父さんが、週末はそのソファーで寝落ちしているのを、私は知っていた。お母さんがお父さんに対して冷たくなるからだ。


 お父さんもお母さんも私に対して当たり障りなく接していたが、心の中では娘を嫌っているらしかった。どんくさい私にあきれているのだ。当然だと思った。

 ふたりとも高学歴だった。特にお母さんは誰もが知っている大学の出身だ。まだ私とお母さんが一緒にお風呂に入っていたころ、お母さんがぽろりとこぼした本音を、私は忘れていない。


「あたしにつりあう人をさがすのが、大変だったのよ」


 お母さんの方は、まさか私がそんな言葉を覚えているとは考えていないだろう。

 良い大学を出ることで結婚に苦労するなら、がむしゃらに勉強する必要はないのではないか。そんな考えが私の頭の奥に、使い古しのタオルの黒ずみのように染みついていた。しかしその疑問を口にするほど、私はばかになりきれなかった。


 そもそも、お父さんがお母さんにつりあっているかという点も、私には疑問だった。お父さんは前時代的な企業戦士で、学校行事にほとんど顔を出したことがない。お父さんが自分で「出世が早い」と言っていたから会社の中では優秀だったのだろうが、父親として優秀だったかどうかは、家庭にいなかったのだから、点数のつけようがなかった。お父さんの出身大学は横のつながりが強く、年に一度は必ず巨大な同窓会へ出かけていった。誰が出席で、誰が欠席かもわからないパーティーだ。そういうところへ臆せず出向いていけるお父さんだから、「出世が早」かったのかもしれない。

 お母さんは同窓会へは行かなかった。お母さんは私を産むときに、それまで勤めていた財閥企業を辞めた。私が小学校に入ると時折パートの仕事をしたが、学校の夏休みのたびに辞めていた。私を育て上げるためにせっかくの高学歴をドブにすてたようなものだ。


 こどもは私だけだった。それでよかったと心から思っていた。もしも私のほかにこどもがいて、彼または彼女に両親の愛情が注がれていたら、私はもっとみじめな思いをしていただろう。


 ちぐはぐな家に、ちぐはぐな家族。


 私はそのちぐはぐな型に合わせて、私なりに知恵をはたらかせて成長した。だから私の心の形もちぐはぐになった。

 音楽はどうしたってものにならなかったが、お母さんによる献身的な教育のお陰で、私もなんとか父の母校の大学へ入り、東証一部上場企業からの内定を得ることができた。

 私のちぐはぐな体に、就職活動用の黒スーツはよく似合っていた。ちぐはぐな口は、すらすらと自己PRの文句をつむいだ。


 でも――


 内定者の意思確認のための面談からの帰りしな、まだすいている電車内の向こうに鮮やかな紫色の髪の女性が座っている。スマホをいじる横顔は、まったく見覚えのない他人だったが、その髪色を見た瞬間、私のちぐはぐな心は、まだいびつになりきらない頃、ほんの十歳の夏へと退行していった。



  *  *  *



 夏休み、法事のために私たち家族三人は、お父さんの実家を訪れていた。新幹線を使い、さらに電車を乗り継いでいく山奥だ。

 せっかくそんな山奥まで来たのに、法事の後の食事会は駅前の都会まで出向いていった。実家の近くに適当な店がないのと、足の悪い親戚への配慮のためらしい。平屋の料亭の座敷を借りて、親戚二十人ほどが集まっていた。私のほかに子どもは幼児しかいない。大人たちの合間をすり抜けて走る彼らが、床の間の立派な花瓶を割ってしまわないか、私はひやひやしていた。


 お父さんは「本家」の人たちに瓶ビールを注いで回っていた。お母さんは「末席」よりもさらに下がったところで、二十人分のお茶を用意するため、保温ポットの蓋のボタンを連打していた。私は「末席」でじっと正座していた。


 大人たちの話す声が、蝉しぐれを伴奏に、右の耳から左の耳へと通り抜けていった。

 あら、今日はダレダレちゃんは来ていないの。塾の夏期講習って聞いたよ。ドコソコの高校を目指してるって。ナントカおじさんも来ていないじゃないの。もうあのおじさんはだめだよ、来てもろくな話ができないだろうよ。あらぁ、それじゃカントカちゃんは介護大変ね。


 私はお母さんの選んだ紺色のワンピースを着て、同じ色のリボンで髪をみつあみにしていた。親戚の誰かが、「あら、可愛いおようふくね」と褒めた。私自身がかわいいと言われたわけではなかった。こういう気持ちは、慣れっこだった。


 座敷は庭に面していて、掃き出し窓の向こうには小さな池があった。外はまだ暑そうだが、窓の内側はひんやり冷えている。長い夏の日が落ち、そろそろ暗くなるという頃合い、幼児たちがべったりと手と顔をガラスにくっつけて、池の鯉を見ていた。かと思うと、彼らはとつぜん駆け出して、座卓のすみに集めてあった空のビール瓶を落としてしまった。

 畳だったので割れずに済んだが、血相を変えて飛んできた両親に子どもたちはこっぴどく叱られた。


「あんた、ちょっと瓶を下げておいで」


 お母さんが低い声で私に指示して、お手拭きで座卓を拭く。私は言われたとおり、両手にビールの空き瓶を抱えて廊下へ出た。


 すぐには厨房の方向が分からず、例によってもたもたした私は、知らぬ間にトイレに出てしまった。トイレのマークに気が付いて回れ右をしようとしたところで、女性用トイレと男性用トイレの間にある、主に障がい者の利用を念頭に置いた、誰でも利用できるトイレから利用客が出てきた。広いトイレから出てきたのは、いやにべたべたとくっつき合っている若い男女だった。さらには、女は紫色に染めたボブカットをしていて、その奇抜な鮮やかさが目を引いた。私はびっくりして、抱えていた瓶を取り落とした。


 瓶は音を立てて割れた。


 男が舌打ちした。その音が、私にはたまらなく怖かった。お父さんは私の前でそんな下品なことはしなかった。


「ね。先に席に戻っててよ」


 男を促す女の口元には、玉のようなピアスが光る。私は動けなかった。


「ったく、しょーもねーガキだなァ」


 男はぼやきながら、廊下を進んで行ってしまった。女はしゃがんで私の脚を調べた。


「ケガはなァい?」


 しゃがんだ女の革のミニスカートから、紫色のサテンのパンツが見えていた。私は首を横に振った。


「そっか」


 女は立ち上がり、店員を呼んだ。作務衣姿の店員がやってきて、割れた瓶をてきぱきと片付けた。女は私を廊下の隅に下がらせ、腕を組んでその様子を見ていた。店員を呼んだところで男を追いかければいいものを、女は店員が瓶を片付け終わるまで、私の傍らにぐずぐずと立っていた。

 店員が去っていくとき、女はまるで私の代わりをするかのように、「ありがとねぇ」と言った。それでようやく私も、ぼそぼそと女に礼を言った。


「……ありがとう、ございました」


 女は私のワンピース姿を頭の先からつま先まで眺めると、組んでいた腕をほどいて私の肩に置いた。


「あんた、いい服着てんじゃん。髪もきれいに結ってもらってサ、お嬢さま?」


 私はふたたびびっくりした。大人からこんな風にあけすけにものを言われたことはなかった。


「……ちがう」

「そうなの? 大事にされてるように見えるけどねぇ。あ、でもたしかに、可愛がられてるって感じは、しないか」


 どぎついアイラインの目を細めて、女はカカカと笑った。女の言葉は、まだ成長途中で伸びやかだった私の心にまっすぐに飛び込んできた。私は、可愛がられているわけではない。分かってはいたが、他人の口から言葉として聞くのは初めてだった。私はこっくりとうなずいた。女は私の肩に置いた手をはなさなかった。


「パパやママはいンの?」

「お座敷。親戚と法事に来てるの」

「クソつまんないんだろうね」


 女は接頭辞にクソをつけて私の気持ちに寄り添った。私はなんとなく、この若い女を好ましく感じ始めていた。それでぽろりと本音が出た。


「こんなところにいたくない」

「ふぅん……」


 女は再び腕を組んで、しばらく考え込む素振りを見せた。たっぷり沈黙したあとで、女はピアスの口元をぺろりと舐めて訊いてきた。


「ね、あいつ、ヤバいと思わない? こんな良い店に連れてきといて、ガマンもできないなんてサ。猿かっつーの」

「あいつって?」

「さっきの男」

「ああ……」


 私は合点がいった。この女は、男と付き合っているふりをしているが、ほんとうは嫌いなのだ。


「うん、感じ悪いと思う」


 私が同意すると、女はまたカカカと笑った。


「ねぇ、私と一緒に来ない? どうせ大人といたってクソつまんないんでしょ」


 どきんと心臓が音を立てた。女は笑って私を見ているが、きついアイラインの目は全然笑っていない。体じゅうの血が冷たくなって、手足をかけめぐった。一緒に行くって、どういうこと? 私はとっさに学校の防犯教室を思い浮かべたが、警察官の扮する誘拐者役の男と、目の前の若い女を結び付けることは、どうしてもできなかった。


「それって、おねえさんとおにいさんは悪いひとってこと?」


 私が訊ねると、女は首を横に振った。


「ううん、あいつは関係ないよ。逃げるの。あたしはあいつから。あんたはパパやママから」


 私は人質になるということなのだろうか。女は私の疑問を見抜いたかのように付け加えた。


「お金ならちょっとはあるよ。まぁ当然、あんたにも働いてもらうけどサ」


 私は返事ができなかったが、女の目から視線を外すこともできなかった。この女についていって、今までとは全然違う生活をする。働く。髪の毛を好きな色にする。紺色のワンピースを脱いで、私もサテンのパンツを履く。

 女は私の肩から手を離した。


「そろそろ、いったんあいつンところに戻らなきゃ。三十分したら、またトイレにおいで」


 そう言って女は廊下の奥へ行ってしまった。


 私はばくばくと暴れる心臓を押さえて、座敷に戻った。お母さんが「遅かったわね」と言った。今しがたの出来事を誤魔化したくて、私はありもしないことを言った。


「お手伝いなんてえらいねって、お店のひとにほめられたよ」

「そう。助かったわ」


 お母さんは私に興味を失ったらしく、座卓に並べられたお刺身のしょうゆ皿に、しょうゆを注いで回った。「本家」のえらいおじさんが何か口上を垂れて、食事開始となった。

 座敷には立派な振り子時計がついていた。私は時計ばかり見ていて、刺身の味が全然分からなかった。お母さんは親戚たちの様子に気を配ってばかりで、私のことなんて気にしていなかった。お父さんはずっと「本家」の人たちのテーブルで、話の輪に混ざっている。座卓の向こうでは、幼児たちがまた親に怒られている。


 私は透明人間だった。


 私はまだ十歳で、心がまだ透明で柔らかかった。いびつでちぐはぐな型にはめられてはいたが、ひとたびそこから取り出されたら、水のように本来の形にもどっていく柔軟性と可塑性を持ち合わせていることを、本能で理解していた。この息苦しい家族から逃げ出したい。私は強く願った。


 さようなら。


 私は口の中でその五字をもてあそんだ。さようなら、お母さん。さようなら、お父さん。さようなら、グランドピアノの居座る家。私は、遠く離れたこの場所で、私として生きていく。


 砂の味の食事をかみしめるうち、約束の三十分が経った。私は誰にも何も言わず、そろりと座敷を抜け出した。

 トイレの前には、果たして女の姿があった。私をみとめると、女はニッと笑った。口元のピアスが照明の光をちかりと反射する。


「やっぱり来たね」


 女は私を連れて廊下をずんずん進む。私の心臓はどくどく鳴る。

 店の玄関口では、団体客がやって来たところだった。案内の店員に、女はひらひらとタバコの箱を見せつけた。喫煙所に行くふりをしているのだ。女が子どもを連れてタバコを吸いに外に出るだろうか。しかも、女は若すぎて、どうやっても私の母親には見えない。

 しかし客の集団にまぎれて、女も私も首尾よく外へ出ることができた。なまぬるい空気がどろりと肌にまとわりつく。辺りはすっかり暗くなっていた。


 路地から駅前通りへ出て、明るい方へ向かって歩いていく。女は、私と手をつないだりなんてしなかった。私は、私の意志で歩いていた。これだけ強い気持ちが私の中にあったのかと、自分でも驚いていた。


 女は鼻歌を歌っていた。流行りの曲かと思って聞き流していると、聞き覚えのあるフレーズが耳に飛び込んできた。


 ――野にも山にも若葉が茂る


 季節外れの「茶摘」を歌っているのだ。女の歌は調子はずれだったが、恥じる様子も見せずに歌う女のことが、私はますます好ましく感じた。

 間もなくターミナル駅へ着く。女は大人用の切符と子ども用の切符を一枚ずつ現金で購入した。女は得意げに言った。


「ICカードで入ったら、足が付くでしょ。特急は高いから鈍行で行くよ」

「どこまで行くの?」

「大阪に友達がいるから、ひとまずそこまで」


 手渡された切符には、子ども料金でも高い金額が記されていた。家からここまで遠かったが、さらに遠くへ行くのだと思い知った。


 女の後を追って、ホームへ下りる。ちょうど目当ての電車が発車するところだった。ベル音の鳴り響く中、女は紫のボブヘアをきらりと跳ねさせて、列車に飛び乗る。その数歩あとで、私の足はぴたりと止まった。車内で女がくるりと振り向く。電車の外、白線の向こう側で切符を握ったまま、じっと動かない私を見て目を丸くすると、付け爪の手をひらひらと振って笑った。


 息絶える直前のセミのようにベルが鳴りやむと、スローモーションで列車の扉が閉まった。女は吊り革をつかむと、つまらなそうに私から目を離した。紫色の頭が、サテンの輝きをまとっていた。


 私は大阪方面へ去っていく電車を、死んだセミのように固まったまま見送った。





挿絵(By みてみん)


※ 上記画像はあさぎかな様から頂戴いたしました。

 あさぎかな様、ありがとうございました!

※ 本文に歌詞引用している文部省唱歌「茶摘」の作詞に係る著作権は消滅しております。

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[一言] 次の展開がどうなるのか、ドキドキしながら読ませて頂きました。 10歳の少女にとっては大冒険ですよね……! 日常の中にふと顔を出した非日常への入り口。 一方であの時もしその選択をしていたら………
[良い点] 若い女性は色とりどりの髪の色にしていることがありますが、サテンのように鮮やかな紫色にしているところは個人的に見たことがありません。 そのくらい珍しくも鮮烈な記憶が蘇った主人公は、あのときに…
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