プロローグ 『これさえあらば何もいらないモノ』
これさえあれば何もいらない。
そんなものに出会った事のある人間が、もしもこの世に存在しているのだとしたら是非ともよろしく会って見たいものである。確実に言い切ってしまっても別段構わないのだが、あえて希望に勿体つけたような言い方を選ぶとすると、どうだろう。そのような経験をしてきている人間は──否、して生きている人間は、まともな人格をしていないのだろうと誠に勝手ながら、僕はそう思う。
それさえあれば、本当にそのままの意味でそれさえあれば、他に何もいらなくなってしまうような代物──つまり全てのものの代替品となりうる概念を所持しておきながらにして正気を保っていられるはずが、たかが数十年生きていただけの人間にあるわけがない、あっていいはずがない。それでもなお正気を保っている人間が存在していたとしても、それを人間と呼称するのにはいささか抵抗がある。そんな奴は人間ではない。もし身近にこれさえあれば何もいらないものをゲットしたと自慢げに話す人がいるのなら、そんなことを話していた人物に心当たりがあるのなら、悪いことは言わない。一刻も早くその場を立ち去るか、早めに縁を切ってしまうことをお勧めする。どれだけ普通そうに見えたとしても、どれだけ賢そうに見えたとしても、どれだけ真面目そうに見えたとしても、まず正気であることが異常なのだと肝に銘じておくのが得策だ。狂気の沙汰でなく正気の沙汰というのもまた、時と場合によっては考えようなのだ。
では逆に、何を持ってしまえば人間は人間たりえなくなってしまうのか。何もいらなくなってしまう『これ』とはいったい何なのか。そこを考えた時に瞬間的に思いつく、『これさえあれば何もいらないモノ』というのはいくつかあるように思う。皆が口にする、なんとも俗っぽい、背中と前歯がゾクゾクしてしまうようなありきたりにありふれた当たり前の言葉。それにして回数を繰り返すと途端に説得力と現実味が薄れてしまう何とも扱いが難しいあの単語。
そう──『愛』だ。愛なのだ。
だがこれは誰がどう深く考えたところで、絶対に正解でないのだけは何となくわかるのではないだろうか。簡単な話である。
愛では全ての代替品足り得ない。
愛は金にならない。
何なら金を消費するのが愛とも呼べる。
愛の形はさまざまだ。だがさまざまであるからこそ全ての代替品とすることは叶わない。解釈が人によって変わってしまうようなものは、他人からしてみれば大した価値にならないからだ。
では金はどうだろう。金は全ての代替品なり得るのだろうか。代替品という考え方を中枢に構えた等価交換の場で圧倒的なまでの存在感を示しながら、基本的に価値が人によって変動しない、現代社会ではなく人類の歴史を形作るために必要不可欠の常識として生み出された金。だがそんな存在であっても完璧ではなく、全ての代わりに離れそうもない。
金で愛は買えないからだ。
そう、僕はどうしようもこうしようもなく、ただ単に、ただひたすらにロマンチストなだけなのだ。『金で愛は買えない』これについてはさまざまな意見があるとは思うけれど、前述の通り、人によって解釈が分かれるものに全ての代替品たる資格はない。
ただこれは資格だけに偏った話というわけでもないのだ。言ってしまえば、『全ての代替品になるモノはない』と、そういう話なのである。これさえあれば何もいらないなんてものはない。あるのは他の幸福を拒絶できるほどに個人の価値観に傾いた、人によっては絶対的な価値を生むナニかだけだ。
だから僕はこう考える。
真に人類が欲するべきは、『これさえあれば他に何もいらないモノ』ではなく、『これだけはあったほうがいいモノ』なのだと。他に何もいらなくなってしまうようなたった一つの幸福よりも、全ての幸福に通ずる強迫的なまでに人生を楽にさせてしまうような概念。全人類が崇め奉り、時には奇跡、またある時には神と、僕らがそう呼んできた救いの手であり渇望の権化。そんなものがこの世界には、確実に、そして決定的でありながらも不安定で不明瞭な、不確かながらも誰もがその存在を認識し認めざるを得ないという、勝者と敗者を隔てる一切メッセージ性を含まない絶対的存在が、ランダムに蔓延っている。
その答えを知りたいというのならば、確実に自分の意思で所持できないことを知っておきながらも知りたいというのならば、あの有名な質問の確かな正解を考えることが一番の近道ではないのだろうか。
ある人はかの有名な耳なし猫型ロボットと答えるかもしれない。
ある人は堅実にサバイバル道具かもしれない。
ある人は大量の食料かもしれない。
ある人は質問のゲーム性を完全に無視して船と答えるかもしれない。
ただ一つ言えることがあるとするならば、ここでは愛も金も何の役にも立たないということだ。
ではその質問の確かな正解とはいったい何なのか、今まで上げてきた数々の答えの候補すべてを総括することができる万能のアンサー。それはこれまでに少なからず感じてきた全ての良いこと悪いことの責任を負わすことができる諸悪の根源たるモノ。
──質問
『無人島に何か一つだけ持っていけるとしたら何がいい?』
僕はこう答える。
「決まってるさ、そんなもの──運がいいに決まってる」