9. ヒンメル商会
シモンたちの戻りが遅いということは、きっとヒルデ嬢が見つかったからに違いない。そんな朗報を持ち帰ることを期待されていた男たちはしかし、宿に戻ってきたときには非常に難しい顔をしていた。
とてもではないが、よい知らせを持ち帰ったような顔ではない。
「どうでした?」
「まだちょっと、わかりません」
「え、なんで?」
「王都の春祭りで、ヒンメル商会の責任者を務めた商会副会長が、昨日から隣町に行ってて留守なんだそうです」
とりあえず、ヒンメル商会の本店にヒルデという名の若い女性がいないことだけは判明したらしい。
シモンによれば、商会長とともに商用で隣町を訪れていた副会長は、本来であれば昨日のうちにこの町に戻ってくる予定だったそうだ。しかし、どうしたことか二人とも戻らなかった。
「どうやら、少し困ったことになっているようなんです」
「え?」
なぜなら今日の昼前になって、憔悴しきった商会長がひとりで帰還したからだ。
副会長は、隣町にある男爵家の屋敷に滞在しているらしい。「滞在している」と聞けばまるでもてなされているかのようだが、話を聞いてみるにそういう感じではない。人質に取られている、と解釈するのが正しいような扱いだ。何しろ「副会長の娘をよこすまでは帰さない」と男爵が言っていると言うのだから。
何でもその男爵は、王都の春祭りで花の女王候補となった娘に懸想したらしい。そしてその娘がヒンメル商会の副会長の娘であることを聞きつけ、娘を連れて来いと副会長たちに迫ったようだ。
途中までは、どこかで聞いたような話ではある。
この男爵が問題のない人物であれば、春祭りを縁に娘が玉の輿に乗った話となるだろう。
ところが残念なことに、この男爵は少なからず問題のある人物だった。
まず、年齢が釣り合わない。男爵の年齢が、娘の親とほとんど変わらないのだ。その上、そもそもこの男爵は独身でさえない。つまり妻帯者でありながら、見目のよい若い娘に懸想したからと言って連れて来い、と言うような中年男だということだ。言われるがまま娘を連れて行ったりしたら、どのような目に遭わされるかは想像にかたくない。
そう聞いて、アンジーは眉根を寄せてゆっくりうなずいた後、少しだけ首をひねった。
「うん。で、つまり、どんな目に遭っちゃうの……?」
「ああ、それは────いっ……!」
性懲りもなくいらぬ解説を試みたユリスは、言葉を口にする前にシモンとミリーから暗黙のうちに成敗された。普段は寡黙なこの男は、なぜかこういうときに限って狙いすましたかのように口を開く。
ミリーはユリスに呆れたような視線を送ってから、アンジーに向かって困ったように微笑み、わかりやすく解説した。
「つまり、お嫁に行けなくされちゃうんです」
「なにそれ。ひどい!」
「でしょう?」
その様子を納得いかない顔で見ていたユリスは、脇腹をさすりながら小さい声でぼやく。
「俺が言おうとしてたことと、内容一緒じゃないですか」
「ん? 何て言おうとしてたのか、私にだけ聞こえるように言ってごらん」
シモンが疑わしげな表情で、内緒話を聞くときのように片手を耳に当ててみせた。ユリスがその耳に何かささやくと、シモンはげんなりした顔で深くため息をついた。
「はい、アウト。それ、ミリー嬢の言葉と全然違うからね。違いがわからないなら、もう黙っててくれよ。頼むから」
二人のやりとりを全然わかっていない顔で首をひねりながら見ていたアンジーは、おずおずとユリスに尋ねた。
「ユリスさん、しゃっくり多すぎない? どこか具合悪いんじゃないの? 本当に大丈夫?」
「あー、全然問題ありません。強いて言うなら、ちょっと修行が足りないだけですね」
「え? 修行?」
ユリスに代わってシモンが答えたが、しゃっくりと修行の関連性が理解できないアンジーはきょとんとする。
「これじゃ先が思いやられるから、家に帰ったら母にしごいてもらいますよ」
「えっ、お母さま? お父さまじゃなくて?」
「うん。こういうのは母のほうが強いから。あの人は、社交界で百戦錬磨の猛者ですからね。ひと月ほど母にしごかれれば、さすがにましになるんじゃないかな」
心なしかユリスの顔が青ざめていた。
アンジーは「社交界で」という部分を聞き落としていたため、コルセットの代わりに鎧を身にまとった勇ましい女傑を思い浮かべ────ようとしたのだが、想像力の限界に阻まれて挫折した。そして、とにかく腕に覚えのあるユリスでも顔を青くするくらいに強い人らしい、というふうに理解したのだった。
シモンは表情を引き締めてから、口を開いた。
「それで今日の午後、商会長がもう一度隣町に向かうことになっています。それに私もついて行くつもりです。何か役に立てることがあるかもしれませんから。身分なんて、こういうときに使わないと意味がない」
それを聞いて、アンジーはうなずいてから「僕も一緒に行ってもいいですか」と尋ねた。
「親の名前を出すくらいしかできませんけど、もしかしたら何かできることがあるかもしれないから」
「ありがとう。助かります」
アンジーはミリーには宿で留守番をしてもらうつもりだったのだが、彼女は自分も一緒に行くと言って譲らなかった。何度説得を試みても頑として譲ろうとしないため、仕方なくアンジーは「何が起ころうと決してユリスのそばを離れないこと」を条件に、ミリーも連れて行くことにした。
そうと決まれば、いったん宿を引き払うことになる。
四人はあわただしく昼食を済ませてから部屋へ戻って荷物をまとめ、宿の清算をした。
※ユリスが実際に何と言おうとしたかに関する質疑はご遠慮ください。作者も知りません。本当です。