2. よし、旅に出よう
アンジェリカは屋敷に戻ると、自室のソファーに座って頬杖をつき、面白くなさそうな顔でしばらく考え事をしていた。やがて顔を上げると、決意に満ちた表情で口を開いた。
「よし、旅に出よう」
「かしこまりました」
小間使いのミリーは間髪を入れずに承諾し、すぐさま鞄をふたつ用意した。
その様子を見て、アンジェリカは怪訝そうに首をかしげる。
「ねえ、ミリー」
「何でしょうか、お嬢さま」
「鞄はひとつで十分よ?」
「はい。わかっておりますとも」
ミリーの落ち着いた返答を聞いて、アンジェリカは心の中で「ん?」と首をかしげた。わかっていると言うわりには、目の前に置かれている鞄はふたつある。
「じゃあ、どうしてふたつ出してあるの?」
「お嬢さまの分と、私の分です」
「えっ」
「え?」
驚いたアンジェリカの声に対して、当惑したミリーの声が返ってきた。
「ミリー。もしかして、一緒に来てくれるの?」
「私を置いて行かれるおつもりだったんですか⁉」
準備を進めていた手をとめ、悲壮感にあふれる表情で目を見開いたミリーに、アンジェリカはあわてた。
「そういうわけじゃないけど、だって、業務外みたいなものだし」
「ああ。ご安心ください。自分の旅費分くらいの蓄えはございます」
「何を言ってるの。一緒に来てくれるなら、もちろん旅費は出すわよ。そうじゃなくて、ミリーはそれでいいの?」
「いいに決まっております」
ミリーは微笑むと、準備する手を再び動かし始めた。
その様子を所在なさげに眺めていたアンジェリカは、ぽつりと疑問を口にした。
「何で、とか、どこへ、とか聞かないの?」
ミリーは手をとめて「ふむ」とひとつうなずいてから、おもむろにアンジェリカに尋ねた。
「なぜ、どちらへ旅にお出になるのですか?」
「ものすごく取ってつけたような質問をありがとう」
アンジェリカは一瞬、閉口したような呆れ顔を見せたが、すぐに苦笑して質問に答えた。
「このまま家にいたら、なあなあで婚約を継続させられるか、婚約解消できたとしても、すぐまたろくでもない相手を探してきそうでしょ?」
「まあ、それに関して私の口からは、何とも申し上げられませんが……」
アンジェリカとしては、当面の間だけでもいいから、そういう面倒ごとから逃げ出したい。
この、くさくさした気分を解消すべく、おいしいものを食べに行きたい。どうせなら国内の名物料理の食べ歩きに行きたい。そういうわけで、旅に出たい。
「だから行き先の決まってない、自由な旅なの」
「かしこまりました。ご出発は明朝でよろしゅうございますか?」
「うん!」
アンジェリカは置き手紙を書こうと机に向かったが、ふと思いついたことがあった。
「あ、そうだ」
「どうなさいました?」
「女だけの旅って、危ないでしょう? だから私は男装しようと思うの」
「かしこまりました。では、手頃な服を調達してまいりましょう」
アンジェリカには二人の兄がいるが、いずれも長身なので服を拝借するには大きすぎるだろう。父はアンジェリカとさほど身長が変わらないが、恰幅がよいのでやはり横方向に大きすぎると思われる。
どこから調達するつもりなのか少し興味があったが、まあ、ミリーならうまくやるだろう。
アンジェリカは再び机に向かうと、置き手紙を書き始めた。
最初にローマンの浮気現場に出くわしたいきさつを簡単に書く。
次にローマンがアンジェリカのことを何と言っていたかも、じっくり思い出しながら書く。
まず、「親の決めた婚約者にすぎない」と言っていた。
そこは事実だし、アンジェリカにとっても同じことだから、その点に関してだけ言えば腹も立たない。もっとも彼女は、だからと言って浮気をしようという発想には至らないが。
あとは何と言っていただろうか。
そうだ、「無駄に長身で女らしさがない」と言っていた。一字一句同じではないかもしれないが、そういう意味のことを言っていたのは間違いない。それから「体つきが貧相で、色気が皆無」みたいなことも言っていた。
だから顔を見るのもうんざりで、とっとと婚約解消したいそうだ。
アンジェリカだって、結婚前から浮気三昧であるのみならず、浮気相手に婚約者の悪口を吹き込んでうれしそうにしている男なんぞ、まっぴらごめんである。
こちらから婚約破棄したい旨を言い捨ててきたので、よろしく対処をお願いしたい。
あの男の顔は、できれば二度と見たくない。だから手続きがすべて完了して事態が落ち着くまでの間、しばらく家を離れようと思うので探さないでほしい。
そう手紙を締めくくり、丁寧に便箋を折りたたんで封筒に入れ、しっかりと封をした。
よし、これでいいだろう。
置き手紙をいったん机の引き出しに片づけ、今度は地図を広げた。
どこへ行こうかと考えると、わくわくする。
おいしいものを食べ歩くのが楽しみなのはもちろんだが、これからの季節はちょうどあちこちで祭りが開かれるはずだ。地方の祭りを見て回りつつ、食べ歩き。何て楽しそうな旅だろう。
そうだ。楽しく日々を過ごして、ローマンとのことなぞ忘れてしまうのだ。
うきうきとアンジェリカが地図の上で旅の計画を練っていると、ミリーが衣類を抱えて戻ってきた。
どれもほどよく古びている。旅に着ていくには、ちょうどよい。
ミリーは衣類をアンジェリカに差し出した。
「お直しが必要なら今日中に終わらせなくてはなりませんから、今のうちにご試着ください」
「どうしたの、これ?」
「お嬢さまと背格好の近い下男に小遣いを握らせて、譲ってもらいました」
「え。大丈夫なの? その人、着るものなくなっちゃわない?」
「大丈夫です。あの子はまだまだ成長期ですから、そろそろこの服ではきつくなってきていたはずです。買い換えるのに十分なだけの小遣いは渡してきたので、問題ありません」
「よかった。ありがとう」
ほっとしたアンジェリカが礼を言うと、ミリーはにっこり微笑んでアンジェリカの試着を手伝った。
ミリーの調達してきた服は、わずかに肩幅が余り、胴回りがゆるいだけで、丈はアンジェリカにぴったりだった。胴回りはベルトで締めればよいし、少々肩幅がゆるめなのはそういうデザインに見えないこともない。
手直しは不要ということにして、さっさと荷造りを終わらせた。
折しも王都では春祭りが開かれていて、ちょうど今日が最終日だ。両親や兄たちは祭りに絡んだ仕事で深夜まで忙しく、きっと明日の朝は遅くまで寝ていることだろう。
家族がまだ寝ている早朝にそっと家を出ることにして、アンジェリカとミリーは早めに就寝した。