17. 恋の成就は先着順
製織町クライスベルクは王都から見て南西に位置し、ヘルトニッヒからは馬車で約一週間ほどの距離である。
シモンの父が治めるデュッケル領と隣接した領内にあり、放牧の盛んなデュッケル領との交易は決して少なくないらしい。そうした背景があるため、ケスマン商会の本部がクライスベルクに置かれていることを覚えていなかったのが、シモンには気恥ずかしかったようだ。
平原の中にあるヘルトニッヒとは違い、クライスベルクがあるのは、なだらかな丘陵地帯だ。なだらかとはいえ、起伏のある道の移動は馬に負担がかかる。そのためクライスベルクに近づくにつれて馬を休ませなくてはならない頻度が上がり、地図上の距離の割には移動に時間がかかった。
もっとも、急ぐ旅ではないので誰も時間は気にしない。
のんびり休んで、のんびり進む。
実に牧歌的だ。
のどかな風景の中で馬を休ませ、ヒンメル商会の商会長から土産として渡された焼き菓子をかじりながら人間たちも休憩する。ヘルトニッヒで仕入れたりんご酒を旅行用の木製カップにそそいで、ミリーが全員に配った。
アンジーは「ありがとう」と笑顔で受け取り、炭酸の泡が弾ける甘酸っぱい味を楽しみながら、シモンに質問した。
「ねえ、シモンさん」
「うん?」
「シモンさんは、ヒルデ嬢が見つかったらどうするつもりなんですか? 求婚するの?」
「え。いや、まさか。そんな急には……」
シモンは面食らったように口ごもり、じわじわと頬を紅潮させた。
それを見て、アンジーは呆れ顔になる。
「じゃあ、しないんですか?」
「そりゃ、いずれはしたいけど、初対面でいきなりって無理でしょう」
「無理ってことはないと思いますけど」
「無理ですよ……」
アンジーはミリーと顔を見合わせて、肩をすくめた。
「なら、求婚は後回しにするとして、最初はどうするつもりなんですか?」
「どうしたらいいんでしょうね……」
「うっそ、何も考えてなかったんですか⁉」
「そういうことに、なりますね」
アンジーはミリーと顔を見合わせ、二人同時に深くため息をついた。
「まず、そこから考えておきましょうよ。今ならまだ時間がたっぷりありますから」
「うーん……」
シモンはしばらく考え込む顔を見せた後、頭をかきむしって背中を丸めてしまった。
「ちょっと、ねえ、シモンさん。何をそんな悩むことがあるんですか」
「私の悩みなんて、女の子と簡単に仲よくなれるアンジーにはわかりませんよ……」
すねている。これはもう明らかに、大変わかりやすくすねている。
アンジーは何だか面倒くさくなってきたが、人間というものはこの状態で放置するとたいてい気持ちをさらにこじらせて、ろくな結果にならないものだ。シモンにわからないよう小さくため息をついてから、努めて明るい声で話しかけた。
「あのね、シモンさん。いいことを教えてあげましょう」
「何ですか?」
いじけた表情のままではあったが、シモンは顔を上げた。
「恋愛っていうのはね、基本的には早い者勝ちなんです」
「そうなんですか?」
「そうです!」
アンジーは力強くうなずいて見せてから、具体的な事例について話し始めた。
アンジーの家業であるシュニッツ商会には、たいてい未婚の若い女性が数人勤めている。女性は結婚すると勤めをやめてしまうから、職場にいるのは基本的に未婚の女性だ。そして若い男たちの恋のさや当ての的となる。
中でもとりわけ器量よしで気立てのよい娘がいたが、不思議と彼女に浮ついた噂が出ることは一度もなかった。男たちはみんな陰で「あの子、いいよな」と言っていたにもかかわらず、だ。
そしてついに彼女の結婚話がまとまったとき、誰もがその相手の名を聞いて驚いた。
それは、誰の目にも明らかに、見た目の冴えない男だったのだ。仕事の上で有能ではあっても、見た目は冴えなかった。だから「美女と野獣」などと揶揄されるくらいに、見た目の上では釣り合いがとれていなかった。男たちは誰もが「あいつに口説き落とせたなら、俺だって行けたんじゃないか」と思ったそうだ。
商会で開いた祝いの席で、誰かが酒の勢いを借りて彼女に質問した。
「どうしてこの男と結婚することにしたの?」
「結婚してくれって言われたから」
にこやかに告げられた単純明快なこの回答に、宴席は一瞬しんと静まってからどよめきが起きた。
「でも、あなたと結婚したいと思う男なんて他にもたくさんいたでしょうに」
「どうかしら。結婚してくれってはっきり言ってくれたのは、この人だけよ?」
その答えに、若い男たちはみんな唖然としたと言う。
男たちはみんな彼女のことを好ましく思っていたものの、同時に高嶺の花だとも思っていたから、気を引きたくてもさりげなく態度に表す程度に過ぎなかった。ところがそうした言外の好意は、彼女にかけらも伝わっていなかったのだった。もしかしたら伝わっていないわけではなかったのかもしれないが、言葉にされない以上、反応のしようがなかったのだろう。いずれにせよその結果が、最初にはっきり気持ちを告げた者の大勝利、というわけだ。
そんな実例を挙げて説明した上で、アンジーはおごそかに結論を告げた。
「だからね、最初にきちんと求婚した者勝ちなんです」
「それは特殊な例なのでは……」
「そんなことありませんよ。結婚退職した他のお姉さんたちも、みんな同じようなこと言ってましたもん」
アンジーがミリーに向かって「ね」と同意を求めると、彼女は大きくうなずいた。
そう聞いてシモンは、「ふむ」と少し考え込む様子を見せる。
アンジーは、ここぞとばかりに畳みかけた。
「だからシモンさんがヒルデ嬢を見つけたらすべきことは、求婚一択なんです。選んでいいのは、求婚の方法くらいですよ」
「方法?」
「うん。ヒルデさん本人と彼女のご両親、どちらに先に求婚の話をするかってことです」
「そりゃもちろん、彼女に先に話したいと思いますよ」
アンジーは満足そうに、満面の笑みを浮かべた。
「なら、もう方針は決まりですね! 次はほら、求婚の言葉を考えておきましょうよ。いざというときに頭の中が真っ白になったら悲惨ですからね」
「え……」
腰の引け気味なシモンは、その後馬車の中で顔を赤らめたり、冷や汗を流したりしながら、アンジーにせっつかれて求婚文句を考える羽目になった。




