15. 若返り
ヘルトニッヒに到着して三日目の朝、客室を出て一階の食堂へ向かおうとするアンジーとミリーに、挨拶の声がかかった。
「おはよう」
シモンの声だと思い、「おはようございます」と挨拶を返しながら振り返った二人は、驚きに足が止まった。そこにいたのが、まったく見覚えのない二人の青年だったからだ。声からシモンだと思い込んでしまったのが気まずく、アンジーとミリーは会釈してそそくさとその場を離れようとする。
すると、青年たちのほうから焦ったような声が追いかけてきた。
「ちょっと待って。何か気を悪くするようなことしちゃった?」
「あの、どちらさまでしょうか……?」
「え?」
怪訝そうにアンジーが青年に尋ねると、彼は虚を衝かれたのか、ぽかんとした顔になった。そして情けなく眉尻を下げ、あごをなでてから、おずおずと口を開く。
「言われたとおり、ひげを剃ってみたんだけど。知らない人の振りするほどひどい……?」
「え、シモンさんなの⁉」
人違いではなく本当にシモンだったことに驚いて、思わず声が大きくなる。アンジーは目を見開いて、食い入るようにシモンの顔をじっと見つめた。どこからどう見ても、さわやか系の好青年だ。どこか陰気でみすぼらしかったシモンの面影がどこにもない。
今までおじさんだと思っていた人が、自分とそれほど歳の離れていない青年だとわかり、アンジーの心臓は何だか少し脈を打つのが早まったような気がした。
「うっそ、若い。シモンさん、本当はいくつなんですか?」
「まるで今まで騙してたみたいな言われ方が心外ですが、二十二歳です」
「ええええ⁉」
聞いた年齢に驚いて、アンジーとミリーはどちらも目を丸くして顔を見合わせた。
その様子を見たシモンは、この二人が他人の振りをしようとしたわけではなく、本当に認識ができなかっただけだということは理解したようだ。
「逆に聞きたいけど、今まで何歳だと思ってたんですか」
「父と同じくらい……、いや、ええっと、それよりはもうちょっと若いくらいかなーと」
「娘と言ってもおかしくない年齢の女性に懸想するような男だと思われていたってことか……」
「そういうわけじゃなくて、ヒルデ嬢も、何と言うか、成熟したかたなのかな、と思ってました」
なるべく相手を落胆させないよう、表現を和らげてみたがあまり効果はなかったようだ。
正直なところ、アンジーはヒルデ嬢のことも「お嬢さん」と呼ぶには少々とうの立っていそうな女性を想像していた。ヒルデという名はありふれてはいるけれども、いささか古風な感じがするというか、若い世代よりもアンジーの親世代に多い名前なのだ。
それにひげを剃る前のシモンの見た目は、あまり若い女性とでは年齢的に釣り合いがとれないように思われた。
「こっちがシモンさんということは、後ろにいるのはユリスさん……?」
アンジーとミリーは、シモンの一歩後ろにいる大柄な青年をまじまじと見つめた。青年は神妙にうなずく。
こちらはこちらで、驚きの変貌を遂げていた。シモンと年齢が同じかやや上くらいの、精悍な顔つきの青年だ。ひげもじゃだったときの『間違って人間の居住区に放たれてしまった野生の生き物』じみた雰囲気は、すっかり消え去っている。
「ユリスさん、まるでちゃんとした文明人みたいに見えるわ」
「今まで俺は何だと思われてたんですか」
「一年の半分以上を山の中で過ごす猟師とか、どこかの蛮族とか、文化的とは言えない生活を送ってそうな人」
「ば、蛮族……」
あまりの衝撃から立ち直り切れていないミリーがついうっかり正直な感想を口にしてしまい、ユリスはがっくりと肩を落としてうなだれた。
すっかり気落ちしてしまった青年たちに、アンジーは努めて明るい声をかけた。
「うん。とにかく、食事に行きましょう!」
どんよりと落ち込んでいる青年たちを鼓舞すべく、歩きながらもアンジーは口を極めて褒めそやす。
「絶対にこっちのほうがいいですよ。間違いなく、ひげ剃ったほうがかっこいいから。ヒルデ嬢に会う前に変身できて、よかったじゃありませんか」
「うん。まあ、確かにそうですね」
まだ少し微妙そうな笑顔ではあるものの、アンジーの全力のよいしょが功を奏したのか、青年たちの表情は少しずつ明るくなっていった。
「それにしても、どうしてひげを生やしてたんですか?」
「顔が地味だから、せめて他人に少しでも印象に残るよう、ひげくらいあったほうがいいと言われて」
「えええ……」
アンジーにはどういう顔のことを地味と言うのかよくわからないが、シモンの顔が地味とは思えない。別に取り立てて美男子というわけではないが、かといって不細工なわけでもない。清潔感があり、何より人柄のよさが顔にも表れていて、とても感じがいい。
「いったい誰にそんなことを言われたんですか」
「母に」
「えええ……」
なぜ息子にそんな間違った助言を与えたのだろうか。
「本当にシモンさんのお母さまなんですか? 実は継母だったりしませんか」
「あれ、よくわかりましたね。幼い頃に実母が亡くなって、今の母は後妻なんです。でも嫡男は教育が大事だからって、英才教育で知られた国外の寄宿学校に入れてくれたり、何かと気にかけてくれる人なんですよ」
それは気にかけたわけではなく、ていよく厄介払いしただけではないのか。
これは継子いじめと解釈するのが自然なように思われる。それも割と陰湿なタイプの。
ユリスのひげも「護衛ならひげくらいあったほうが腕に疑念を持たれにくい」と継母から強く勧められたと言うから念が入っている。
しかしシモンは、本気で継母のことを善意に解釈しているようだ。そんな彼に対して身も蓋もないことを言う気にはなれず、困惑したアンジーはミリーと顔を見合わせた。
ミリーはアンジーの困り顔を見て小さくため息をつくと、作った笑みを顔に貼り付けた。
「シモンさまのお母さまは、一般的なご婦人よりも渋好みなのかもしれませんね」
「そうでもありませんよ。着飾るのも好きみたいで、周りからよく趣味のよさを褒められるような人なんです」
シモンのこの返答により、アンジーとミリーの頭の中では継子いじめが確定した。
アンジーの頭の中には「継子いじめをするような陰湿な性格であり、かつユリスでも腕っぷしではかなわない凶暴な女傑」というシモンの継母像が出来上がっていた。
だが継母の善意に疑いを抱いていないシモンにとって、趣味のよいはずの継母からの助言は素直に従うに値するものだったのだろう。シモンが継母から刷り込まれた「自分の顔は地味だ」「ひげくらいあったほうが印象がよくなる」という思い込みは、まるで強力な呪いのようだった。




